「人は見た目が9割」を読む

これまた表題と内容が一致してないのでは?思える本だが・・・・
本は見た目ではいったい何割であろう?まさに7%か?人は見た目が9割 (新潮新書)

 言葉は七%しか伝えない
 私たちの周りにあふれていることば以外の膨大な情報。それを研究しているのが、心理学の「ノンバーバル・コミュニケーション」と呼ばれる領域である。最近は、言葉よりも、言葉以外の要素の方がより多くの情報を伝達していることが分かってきた。アメリカの心理学者アルバート・マレービアン博主は人が他人から受けとる情報(感情や態度など)の割合について次のような実験結果を発表している。
○顔の表情 五五%
○声の質(高低)、大きさ、テンポ 三八%
○話す言葉の内容 七%
 話す言葉の内容は七%に過ぎない。残りの九三%は、顔の表情や声の質だというのである。実際には、身だしなみや仕草も大きく影響するだろう。
 ついついコミュニケーションの主役」は言葉だと思われがちだが、それは大間違いである。演劇やマンガを主戦場としている私は、人は能力や性格もひっくるめて「見た目が九割」といっても差し支えないのではないかと考えている。にもかかわらず、学校教育では「言葉」だけが、「伝達」の子段として教えられる。だから七%を「全体」と勘違いしている人が生まれる。たとえば、「本をたくさん読む人」が「たくさん勉強している人」という錯覚が生まれる。「本をたくさん読む人」が必ずしも「情報をたくさん摂取している人」ではないのである。
 私たちは「本をたくさん読む人」の中に、人望もなく、仕事もできず、社会の仕組みが全く理解できていないと思える人がたくさんいることを知っている。
 七%の情報の中で生きている、あるいは、自分が重視していない九三%と、自分が愛する七%との関連付けが行われないまま、「世渡り」をしているとおぼしき人である。 そういう人と接すると「言葉が地に着いていない」あるいは「言葉が宙に浮いている」と感じる。表現を変えれば、確かに理屈は正しいのだが、理屈しか正しくない人たち−−−。私たちは、そういう人の意見を聞くと、こんな反応をしたくなる。
 「あなたの言うことの意味は分かるけど、あなたに言われたくない」
 言葉主体の「コミュニケーション教育」の申し子たちは、七%を見て九三%を見ないそういう人も「本を見て森を見ず」という言葉は知っている)。
 とはいいつつ、九三%がいかに大切かを説いている私も、分か悪いのを実感せざるを得ない。何しろ、書物は「言葉」で書かなければならないのだから。
 教育の陥穽という観点から、一つ補足する。私たちは、子供の頃小学校の先生に「人を外見で判断してはいけない」と教えられた。それは「人は外見で判断するもの」だから、そういう教育が必要だったのだ。
 逆にいうなら、「人を外見で判断しても、基本的には問題ない。ごくまれに、例外があるのみである」といってもよい。(P19〜20)

自分の席から離れない上司
 縄張りの中にずっと居たがる人物は自信がない。だから舞台では、自信がないりーダーには、自分の縄張りの中で指示を与えるように演出する。
 自分が歩いていけば済むようなことも、「○○君、こっちに来たまえ」と呼びつけるのである。台詞がなければ、「こっちに来い」という具合に、アクションで呼びつける。
 その人物は、威張っている。が、実は能力がないということを表現している。
 実際、有能な経営者は、社長室に龍ってばかりはいない。現場が好きで、現場によく出る。人やトラブルに遭うことを恐れない。自信があるからそれができる。
 仕事に自信を待っているりーダーは、スッと部下の席まで行く。縄張りの中で自分の権威を守るより、部下の能力を引き出そうとする人物なのだ、ということが伝わる。
 私か演出をする時、有能で人望のある人物は、できるだけ動きをとらせる。動きに自信を漲らせる工夫をする。で、相手の調子に合わせて喋るよう指示をする。自信のある人はそうなっているものだ。(P32-33)

私が戯曲を書くとき、勘のいい女性は社会的立場が弱いことが多い。会社の中でいえば、お茶汲みや電話番であったりする。そういう女性が、時々エリートをハッとさせるような鋭いことをいうのが、ドラマチックだからともいえる。逆に、エリート総合職の女性は勘が鈍いように描く。理詰めな話をさせると優れているが、人間の機微の肝心な部分がわからずに失敗するというドラマになる。
 なぜ、そんな描き方になるのだろう。それはもちろん私がそう感じているからだが、実際にそういう傾向があるのだ。
 社会的に力を持っている女性は、相手の心情を察する必要がない。相手がどう思っていようとも、命じて動かすことが大事だからである。
 ところが、社会的に立場の弱い女性は、相手がどう思っているかが大事なのである。
 自分が生き延びるためには、相手の気持ちを尊重しなくてはならない。必然的に、相手の本心を見抜く勘が磨かれる。例えば私が何か用事を頼む。最後に「手が離せないのなら後でいいんだけど」と付け加える。そのニュアンスから、今すぐやるべきか、後でもいいのかを鋭く判断するのである。
 テレビドラマでも、夫の浮気を見抜く女性は専業主婦であることが多い。女社長やエリート総合職は、夫を別の女性に取られる役回りになる。
 社会的立場の弱い女性の勘は、要チェックということになる。
 この特性は男にも当てはまる。例えば、中途入社で仕事のできない人は、会社の中では立場が弱い。だが、社内の世渡りは割に上手がっかりする。この能力は、妻が夫の嘘を見破る勘と無縁ではないように思う。(P58-59)

私の「マナー観」が変わったのは、あるマナー教育の専門家に出会ってからだ。マナーは計算されて作られている。何故そのマナーが生まれたのか、という説明を受けているといちいち頷かされる。きちんと考えて行動すれば、みんなそのマナーに行き着くのである。そのマナーに行き着かない人は、対人関係を考えていないのではないか、とさえ思えてきたのである。(中略)
つまり、客を大切な人間として遇しつつ、無駄を省いているといってもよい。もちろん、そこから後は、マナーに対する個人の考え方次第でいかようにも変化する。暖かさが増すこともあれば、事務的な対応の比重が高くなることもある。ただ、最低限礼を失することのないようになっている。これがマナーという思想なのだ、と思うのである。
 つまり、マナーというものはノンバーバル・コミュニケーションを意識化したうえで、非常に洗練した形で練り上げた結果の産物だということになる。(中略)社会生活のさまざまな局面で、できるだけ相手に不快感をあたえず、かつスムーズに行動すること、それはすなわち相手への礼を尽くしているということになる。つまりマナーを守っているということは、相手に「あなたを尊重していますよ」というメッセージを発していることに他ならない。(P166-168)

ちなみにP134に紹介されている千葉先生のHPもなかなかすごかった→ここ