沖縄 悲遇の作戦―異端の参謀八原博通 (光人社NF文庫)

さっそく読んでみたのだが、考えさせられる点が多い
映画では仲代達也が好演をしていたのだが、映画の制作時には彼はまだ
「沖縄決戦−高級参謀の手記 S47年 読売新聞社」を出版していない
もう一方の生き残りである航空参謀 神直道少佐の
「沖縄かくて潰滅す 神 直道 著 S42年 原書房」は出版済みで、先日紹介したこのページでもこのように
書かれていた

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinjiotu/jinji142.htmlより

■ 付記:東宝映画「沖縄決戦」

昭和46年東宝株式会社製作・配給による映画「激動の昭和史・沖縄決戦」が封切られた。
俗に云う「東宝8.15シリーズ」の一つとして公開された本作品は、沖縄戦全体を現したほぼ唯一の映画であり、劇中でも攻勢か持久かを巡る軍司令部内での作戦思想の相違が描かれている。
製作に当たっての参考資料の一つとして、神参謀の著作が挙げられている。(八原参謀の著作は昭和47年に出版だが、八原参謀に取材した部分も含まれる『昭和史の天皇』も参考資料の一つである)

また神直道氏は、神奈川県鶴川のロケ地に姿を見せ、川津祐介扮する神航空参謀に自ら会って当時を回想している。

この本では、このところ問題になっている沖縄戦集団自決のことはもちんろんほとんど触れられていない
しかしながら、作戦上のことでこのような記述がある
P343〜346までの長い引用になるが、なかなか重要であると思われる。

 後退作戦の是非
 沖縄軍のこの後退作戦については、南下する戦場に巻きこまれ、多くの犠牲者を出した沖縄の人たちから、強い批判を聞く。
 たしかに、戦理のうえでは正当でも、結果として喜屋武半島撒退作戦で、南進する米軍の砲火に追われて、遂に逃げ場のない海岸にまで追い詰められた住民に、多くの死傷者を出したことは否定できない。
 現実に、沖縄島民の犠牲者の大半は、首里戦線崩壊後、島尻南部戦場を彷徨中に生じたものであった。
 軍隊と住民がいっしょに後退することは、さまざまの悲劇を生み出した。心ない兵が作戦のためと称して、住民を壕や自然洞窟から鉄の爆風の吹き飛よ修羅場へ追い出した例も多い。もちろん、軍が構築していた陣地に、配備された部隊か到着してみると、すでに多数の避難民が砲爆撃を避けて入りこんでおり、やむなく追い出したという場合も少なくはなかろう。
 沖縄軍も、後退作戦に伴う住民の避難対策を忘れていたわけではなかった。五月二十九日喜屋武後退決定の七日後、与耶偕の第二十四師団の壕で、県側と住民避難に関する連絡会議が開かれた。席上、第ニ十四師団の杉森参謀は、島田知事に対し、
 「戦場外になると思われる知念半島へ、住民を避難させるようにせよ」
 との軍の指示を伝えた。知念半島はすでに軍の作戦区域外となっており、米軍も投下ビラで、一般住民は知念半島に集結するよう勧告していたからである。
 しかし、この指示は、あまりにも遅すぎた。当時、県庁は警察組織がまだ健在であったが、米軍の砲爆撃のなかで四散した住民たちに徹底させるのは困難をきわめた。
 指示を聞いて知念半島へ向かった住民たちも、二十二日、すでに東海岸の与那原が米軍に突破され三十日には知念半島入口の津波古に米軍が追っていたので、恐れをなして引き返さざるを得なかった。
 もし軍が、ニ十ニ日の喜屋武半島後退決定と同時に、島田県知事を呼び、住民の知念半島撤退を強力に指導していたら、島民の犠牲はかなり少なくなったことは間違いない。県人口課長たった浦崎純氏の回想録(『消えた沖縄県』)によれば、島田知事は県民保護の立場から、
 「首里を放棄して、南端の水際まで下るとなれば、それだけ戦線を拡大することになり、勢い、県民の犠牲を大きくする」
 と、首里放棄反対を強硬に申し入れていたという。であれば島田知事は、即時、知念半島撤退を強力に指導しただろう。
 なお、八原の自著『沖縄決戦』には、次の記述がある。
 「各方面の情報を総合するに、首里戦線の後方地域には土着した住民のほか、軍の指示に従い、首里地域から避難して来た者が多数あることは確実である。これら難民を、再びここで地獄の苫しみに陥れ、戦いの犠牲とするのは真に忍び得ない。軍が退却を決めた際、戦場外になると予想される知念方面への遍路は、一応指示してあるはずだった。しかし、同方面へ行けば、敵手にはいること明瞭だ。今やそのようなことに拘泥すべきときではない。彼らは避難民なのだ。敵の占領地域内にいる島の北半部住民と同様、目をつむって敵に委するほかはない。そして彼等への餞けとして知念地区内に残置してある混成旅団の糧株被服の自由使用を許可すべきである。
 軍司令官は、この案を直ちに決裁された。指令は隷下各部隊、警察機関−荒井警察部長は、首里戦線末期においても、なお四百名の警官を掌握していた。住民の保護指導のために、特に軍への招集を免除されていた。鉄血勤皇隊の宣伝班、さらに境内隣組等の手を経て一般性兄に伝達された。戦場怱忙の間、この指令は各機関の努力にかかわらず、十分に徹底しなかった憾みがある。指今に従い、知念に向かった人々も、潮の如く殺到する敵の追撃部隊を見ては、怖気を出し、具志頭付近から踵を返す始末である。かくて琉球島南端の断崖絶壁上において、多くの老幼婦女子をいたましい犠牲にしたのは実に千秋の恨事である」

 八原は、当時の一般的風潮であった「一億玉砕」を呼号するような思想の持ち主でなく、逆の考え方をしていたが、首里撤退の際は、目前の作戦立案に追われて、住民避難まで熟考する余裕はなかったたのだろう。八原は軍の高級参謀の立場から、あくまで作戦が主務であった。しかし八原は、後退作戦を立案した参謀として、島民の被害増大を、終生悔んでいたらしい。沖縄在住の元部下から、来島を招かれても、
 「沖縄の人たちにすまない。合わせる顔がない」 と、一度も島の土を踏まなかった。

 首里複郭陣地で最後まで持久する作戦がとれなかったのは、首里南方の陣地が図上の想定だけで、準備不足だったのが主因であろう。
 これは、島尻南部海岸、特に糸満湊川方面へ敵が上陸する可能性も大として、第六十二師団を北正面に、第二十四師団を南西正面に、独混第四十四旅団を東正面に配備する、三点配備態勢をとり、特に海岸地帯の陣地構築に力を入れたため、首里南方の複郭陣地にまで手が回らず、円形陣地を造れなかったのである。
 現実の米軍の攻略作戦からすれば、北正面に全力を集中し、島尻南部を放棄する配備もあり得ただろう。しかしその案を実行すれば、必ず沖縄の官民から「軍は我々を見捨てる気か」 という、猛烈な非難を浴びたことは間違いない。また島尻南部の放棄を米軍に覚られれば、米軍は必ず南部海岸にも上陸しただろうし、そうなれば住民は米軍上陸部隊と日本車のサンドイッチとなって、島尻後退作戦に劣らぬ犠牲を出した可能性も大きい。
沖縄 悲遇の作戦―異端の参謀八原博通 (光人社NF文庫)より引用