龍馬伝

息子も妻も福山雅治のファンであり、年末は「ガリレオ」の2夜連続のTVも楽しんで見た
今回の福山雅治の写真を「ステラ」やTV画面で見る度に
ガリレオ等との差でやや敬遠気味だったが、第1回を楽しく見ることができた

数年前の「功名が辻」の最後の頃で、すでに伏線が引かれていたようだ
ここはぜひ、仲間由紀恵さんのコメントなどが入ると笑えるのだが・・・・

山内一豊の土佐支配がいかに分不相応というか、困難なものであったかが
後々のこの江戸末期のドラマが物語っている?
いや、このあたりは司馬遼太郎の「龍馬がゆく」のあたりでも随分と書かれていたように
記憶しているが、逆に2百年以上続いていたことにも、感慨を覚える

一領具足がキーワードであろう
一般には郷士とい括りになるのだろうがこの解説がわかりやすい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%A3%AB

土佐郷士
関ヶ原の戦い以前に四国を支配していた長宗我部家の旧臣一領具足層を懐柔するため郷士に取り立てた。一方、掛川衆や山内侍と呼ばれる上士は、山内一豊掛川城主だった時からの家臣や土佐入封前に大坂牢人を取り立てたものである。土佐藩における郷士は武士とはいえ、他藩に比べると徹底した差別下にあったため土佐藩上士とは同じ藩士とはいえ潜在的には対立、敵対関係にあったとされる。幕府や藩の権威が衰えた幕末には土佐郷士達の多くが尊皇攘夷運動に身を投じた。
著名な人物には土佐郷士をまとめ土佐勤王党を結成した武市半平太や、海援隊の結成や薩長連合の斡旋、大政奉還の実現に尽力した坂本龍馬、初代衆議院議長中島信行がいる。
郷士. (2009, 12月 12). Wikipedia, . Retrieved 13:01, 1月 3, 2010 from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%83%B7%E5%A3%AB&oldid=29460109.

長宗我部家の後継として土佐を与えられたのは山内一豊だったが、長宗我部家の遺臣団は新領主の登場を必ずしも歓迎しなかった。竹内惣右衛門を中心とする一領具足は、浦戸城の引渡しを拒否し、盛親に旧領の一部(土佐半国という)を与えることを要求した(浦戸一揆)。山内一豊は弟の山内康豊を鎮圧に派遣。遺臣団側は浦戸城に篭城して抵抗したが、城内の裏切りによって開城、降伏した。273人の一領具足が斬首され、その首は塩漬けにされて大阪の井伊直政のもとへ送られたという。
その後も高石左馬助を中心とする滝山一揆など、一領具足による反乱が起こったが、山内家はこれを鎮圧し、やがて一領具足を含む長宗我部遺臣団を、藩士(上士)以下の身分である郷士として取り込んだ。土佐では郷士藩士と厳密に区分されたため、江戸時代を通じて上下対立の原因となった。
一領具足. (2009, 7月 21). Wikipedia, . Retrieved 13:03, 1月 3, 2010 from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%80%E9%A0%98%E5%85%B7%E8%B6%B3&oldid=27014301.