教育再生会議報告についてのある地方新聞の社説

http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070126/1169740281
今日行く審議会@はてな - 山陰中央新報社説
で紹介されていたのだが、実際に読んでみるとたしかにおもしろい
ものすごく正当な論説なのに、大新聞をはじめとするマスコミは
枝葉の問題を対症療法的な発言に始終している気がするのだが・・・・
長くなるが引用しておこう(消されても困るから)
http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=344809033
山陰中央新報 - 教育再生会議報告/説得力欠ける処方せん

教育再生会議報告/説得力欠ける処方せん

 「ゆとり教育見直しのため授業時間増」「教員免許更新制」「教育委員会改革」と、さまざまな処方せんが並ぶ。政府の教育再生会議安倍晋三首相に提出した第一次報告の内容だ。

 だが、これまでの教育のどこがどう問題なのか。肝心の現状分析が欠落したまま処方せんを並べても説得力に欠ける。人目を引きそうなテーマを並べて政治的アピールを狙ったのか、中央教育審議会の守備範囲を横取りしたようなテーマが目立つ。屋上屋を架すとの印象は避けようがない。

 国内総生産(GDP)に対する公教育費の割合は、先進国でも最低レベルだ。再生会議で「五十年先、百年先を見据えた議論もしてまいりたい」(安倍首相)というなら中教審では荷の重い、こうした問題にこそ切り込むべきだ。

 省庁を超えたテーマも抽象論でお茶を濁している。動いている教育政策の後追いと、カネのかからない精神論ばかりでは再生会議の看板が泣く

 例えば、ゆとり教育見直しとして掲げた授業時間の10%増。「すべての子どもに高い学力を」という首相の意向をくんで盛り込まれたのだろうが、子どもたちの学力のどこにどんな問題があり、授業時間という処方せんにたどり着いたのか、判然としないままだ。

 そもそも、ゆとり教育といっても定義がはっきりしない。「ゆとり」という言葉も、変化する社会に対応するため「ゆとりをもった学習活動を」という学習の質に着目した理念である。詰め込みでない、はげ落ちない学力を目指したものである。

 こうした理念について文部科学省中教審は「趣旨は間違っていないが、手だてに問題があった」として、学習指導要領の見直し作業を積み上げているところだ。どんな学力を目指すのか、十分な論議もないまま、政治の力で強引に横やりを入れるようなやり方は少し乱暴ではないか。

 文科省が認めているように、そもそも授業時間を増やすことと学力との相関関係は実証されていない。学力世界一といわれるフィンランドの授業時間は、日本よりはるかに少ない

 報告は、基礎・基本の反復・徹底など指導方法まで言及しているが、これらは学校が子どもの状況に応じて判断すべき事柄だ。大所高所に立って教育のあり方を議論する教育再生会議の仕事とは思えない。出席停止の活用も子どもの状況に応じて現場で判断すればいいことだ。上から一律に「活用しろ」と言うのは、無用な混乱を招くだけだろう。

 「ゆとり教育見直し」「教育委員会制度改革」など、いったん消えかかったテーマが報告に次々と復活したのは「先送り、先送りでは首相の指導力が見えないということになる」という官邸の意向だという。その上、議論の舞台となった中核メンバーによる運営委員会は議事録さえ非公開だ。

 広く国民の関心事である公教育のことだ。密室で詰めた論議もないまま、結論だけを下ろしてくるようなやり方は問題である。議論は公開の場で堂々と進めるべきだ。その際、教育は将来の国を担う、子どものためにあることを忘れてはならない。

http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=344843034
山陰中央新報 - 教育再生の筋金

教育再生の筋金

 政府の教育再生会議が安倍首相に提出した第一次報告書を読んでいくと、教育に一本の筋金を通そうとする意志が伝わってくる。子供中心主義の理念から生徒に迎合するような現在の教育。それを国家主義的な規律によって鍛え直す。そんなリゴリズム(厳格主義)の復活を思わせる▼鍛え直しの筋金を入れるのは、学力低下を招いたゆとり教育を筆頭にいじめを生んでいる風潮であり、ろくに指導もできない不適格教員である。ゆとり教育を見直して授業時間を増やし、いじめや暴力を繰り返す子供には出席停止や体罰も辞さない。不適格教員をあぶり出すため、教員免許の更新制も導入する▼個人主義自由主義の結託が教育現場の規律を緩めている、との認識が報告書の下敷きとなっている。子供たちの甘えと、教師の弱腰がもたれ合う教育のたがの緩み。その現状に対するいら立ちが国家主義と共鳴しながら、教育の心根を変えようとする▼教育は厳しくすべきだ、というリゴリズムに多くの国民は共感しそうだ。しかし、その厳しさは国家の力を借りなければ教えることができないのだろうか。子供を信用せず、教師も頼りにならない。教育委員会もいいかげんだ。それなら国家が前面に出て筋金を入れ直すべきだという教育再生一見分かりやすいが、それだけに危険性もはらむ。その路線に安易に乗っかってしまうと教育の国家統制を強め、管理主義をはびこらせることになるのではないか▼今の教育に反省点は多い。しかし現場の改善は、現場の対話と苦闘を通じて模索する。教育が内面性との対話であるからこそ、筋金は内面から支えられるべきだ。(前)