下流志向

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

一週間前に立ち読みして、おもしろさを感じて買った
中盤まで来てなかなか読み進めなかったがようやく読了

はじめの方の「等価交換する子どもたち」にかなり説得力を感じた
最後の方の「教育のアウトカムは数値的に評価できない。それは当たり前のことです。(P159)」
ここまではっきり言っていただけると、すっきりとしたものを感じる

146ページから始まる教育についての話もとても説得力を感じる
158ページから少し引用させていただく

企業でも一時期「成果主義」と称して、コンサルタントを雇っていろいろと成果の評価を試みたようですが、適切でない評価を下すことによって失われる組織的なダメージを考えると、よほど精密な評価システムを構築しないと、成果主義的勤務考課はむしろネガティブな結果をもたらすことになる。しかし、信頼性の高い、精密な評価システムを構築するためには、そこに膨大なリソースと時間を投じなければいけない。「適切な勤務考課ができる人間」というのは、客観的にものが見られて、冷静で、手際のいい人ですから、それ以外の仕事だってできるに決まっている。そういう、企業にとっていちばん貴重な人材をあらいざらい評価活動にもっていかれてしまったら、企業は立ちゆきません。
 実際に、どこの企業でも、ある段階までやって「成果主義はあきらめよう」という雰囲気になってきています。個人の成果を評価するのはいいことなんですけれど、評価コストが評価のもたらす利益を超えることが確実だからです。
 教育のアウトカムを成果主義的に評価するというのも同じことです。 P158〜159より引用

愛知県でも、教員評価制度が始まる。人事考課制度や学校評価は時代の流れとはいうものの
そのためのエネルギーの投入は、「教育のため」「子どもたちのため」とはいうものの
「組織的なダメージ」という指摘はなかなか出ていないのが実情のような気がする

教員の世界では、どうも世間知らずという後ろめたさがあるのかもしれないが
「企業では常識となっている」というのが殺し文句になっているように感じる
つまり、教育界、公務員業界の後進性という幻想のようなものがあって
こうした評価システムに対して、すでに企業では「成果主義はあきらめよう」というころに
遅ればせながら・・・・という状態が何とも嘆かわしい

教育の効果というのは、卒業時点において取得された単位数や成績や資格や専門知識や技能だけではありません。高等教育で学んだもっとも重要な技法であるはずのコミュニケーション能力や問題解決能力は総合的すぎて数値化できない。識見や判断力や感受性や趣味といったものは、いったいいつどんなふうにして身についたのか、血肉化してしまうともう本人にだってわからない。ましてや、学校で身につけるもののうちもっとも重要な「学ぶ能力」は、「能力を向上させる能力」というメタ能力です。いうなれば「ものさしを作り出す能力」です。「ものさしを作り出す力」をできあいの「ものさし」で計測できるはずがない。

 教育のアウトカムは数値的に評価できない。それは当たり前のことなんです。
 それを数値化できるはずだし、数値化しなければならないと言い立てる人がいるのは、学校を工場に見立て、卒業生を製品に見立てるという市場主義的な教育観の危うさを誰も疑っていないからです。 P159より引用

ゆとり教育が否定され、全国的な学力検査による数値的な評価を推進し
目に見える成果を期待する、国・自治体・保護者などからのプレッシャーを感じて
教員業界はなかなかきびしいものがあります。

総合的な学習の時間も、負担にこそなれ希望が見出される雰囲気はない
中教審にしろ教育再生会議にしろ、総合的な学習の可能性を声高に叫ばないのは誠に残念である
ゆとり教育が学力を低下させたから、向上させるという
猿でもわかる単純な図式にして、学力とは何か
学力は測ることができるのかというような本質的な議論は、全くない状況である

参考までに内田先生のブログは以前アンテナにしていました(今は表示はしていませんが・・・・・)

http://blog.tatsuru.com/ 内田樹の研究室
http://nagaya.tatsuru.com/ 

いつになく多弁であるのは
引用が主でなく、従でなくてはならないという
なんだかとってつけなような情けない文章でした(涙)