- 作者: 中野孝次
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1996/11/01
- メディア: 文庫
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http://d.hatena.ne.jp/ky823/20070604#p3
■生きる財産となる名言大語録の中に、ひと言二言紹介があり
思わず買ってしまう。土曜日と昨日の2日間で読了
これまで読んでいなかったことを恥じ入る
P161日本にはかつて清貧という美しい思想があった。所有に対する欲望を最小限に制限することで、逆に内的自由を飛躍させるという逆説的な考えがあった。
P165清貧とはたんなる貧乏ではない、それはみずからの思想と意志によって積極的に作りだし簡素な生の形態です。
P166 清貧とはみずからの思想の表現として最も簡素な生の選択であると言いかえる必要があった。
ひとたび所有欲にとりつかれると、人は所有の増大にのみ関心を奪われ、金銭の奴隷となって、それ以外の人間の大事に心が及ばない。家族への配慮とか愛とか慈悲とか、人間としての最も大事なことにさえ気が向かず、富貴な人は必ず慳貪(けんどん:物を惜しみむさぼること。けちで欲ばりなこと。)になる。
P212 ふつうの人からは粗末で貧しげに見えるその草庵のなかで地上の生ける者すべてと同じレベルで生活し、かれらのいのちと共感して生きることで、詩人たちはどんな金殿玉楼の住人よりもゆたかで充実した内的生活を送っていたかもしれません。
P222もし、「清貧の思想」がかれら一部の文人だけに限られるものであったら、それは一国の精神文化の伝統と呼ぶに値しないでしょう。が、かれらが言葉においてあらわしたものは、かれらのように言語表現能力を持たないふつうの生活者の中にも根強くひろく行き渡っていたのでした。富んで慳貪であるものを軽蔑し、貧しくとも清く美しく生きる者を愛する気風は、つい先ごろまでわれわれの国において一般的でした。
P228-229清貧とは単に貧しいことではない、自然といのちを共にして、万物とともに生きることなのですから。
P244「吾が生既に磋跎(不遇で志を得ぬさま)なり」なのである。このままではもはやこれ以上やっていけないところまで来ているのだ
P246兼好の思考法をかりるなら、明日死なんというときにテレビを見ている人がいるだろうかということである。死はいつ訪れるかもしれないとしたら、その死の前にしても肯定できるだけの心の生活の充実を図ることこそ、兼好のいう賢い生き方というものだろう。
これを機に、光悦、西行、兼好、良寛ら先人の生き方についても大いに関心を持った。これまでの不勉強を今更にして嘆く今日この頃である
なお、徒然草については結構ページがあってびっくりである
http://www.tsurezuregusa.com/ 徒然草 (吉田兼好著・吾妻利秋訳)
http://www.ks-cube.net/tsure/ 超現代語訳 徒然草
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/turezuregusa.html 『徒然草』 もの狂おしくない新訳