沖縄の島守―内務官僚かく戦えり

愛知県図書館で借りてきた
書店の店頭にはなかったので、買わないまま読了してしまった
この夏は「激動の昭和史 沖縄決戦」等の終戦敗戦記念日に関連したTV番組を多く見た関係で、
これまで知らなかったことの多さを恥じ入りいろいろと本で確認している毎日である
この本は、軍人ではなく、県知事と今でいう県警本部長の2人の活動を追っている
8月23日の日記にも書かせていただいたが、首里城を放棄して南部へ撤退する作戦の是非、またその時の伝達指示系統の諸問題は
この本のなかではこのように記載されている

五月四目黎明、船舶工兵と海上挺進戦隊の決死隊が東西両岸で敵の背後に逆上陸を企て、それに呼応して二十四師団を主軸とする日本車は北方へ出撃したが、米軍の陸・海・空三方からの集中砲火を浴び、総攻撃はまたも失敗、二十四師団は兵力の三分の一を失った。米軍は「翌五日まで二日間の日本車遺棄死体は六二三四」と記録している。戦線はさらに押し下げられ、首里周辺に危機は迫った。
 牛島はハ原を呼び、告げた。
 「貴官の予言通り攻撃は失敗した。しかし、みだりに玉砕することは予の本意ではない。軍の主戦力は失ったが、なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、沖縄の島の南の果て、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける覚悟である」
 日本車の首里撤退はこの時、事実上、決まった。南部へ逃れている県民約一五万人を巻ぎ込んで、島尻全域を″戦場の村″と化す悲劇のサイは、ついに投げられたのである。しかし、島田や荒井がその事実を知るのは二旬も先、それもおぼろげに、であった。 P285より引用

 島田が軍へ要請した内容については、人口課長の浦崎も著書『消えた沖縄県』や『沖縄の決戦県民玉砕の記録』の中で明記している。
 〈かねがね島田知事は、住民保護の立場から、軍に強硬な申し入れをしていた。
 「首里を放棄して、南端の水際まで下がるとなれば、それだけ戦線を拡大することになり、いきい県民の犠牲を大きくすることになる」 と考えて、首里放棄に反対したのである。おそらく島田知事としては、制海・制空権をことごとく敵に掌握された今となっては、補給も断ち切られてしまったので、総攻撃失敗後の抵抗は無意味だと考えていたのではなかろうか。首里で手を挙げようと、南端水際で投降しようと、結果は目に見えている。兵員、住民の犠牲をできるだけ食いとめるにぱ、この際、人道的立場から首里での戦闘終結を選ぶべきではないかと判断していたのであろう。良牧民官として人道主義に徹していた島田知事の心情がよく理解されるのである。〉

 軍、撤退を明言せず
 しかし、三十二軍は首里での戦闘終結に消極的だった。第二回総反攻失敗以降、作戦を全面的に任されたハ原高級参謀は、参謀本部の「沖縄は日本本土なり。寸地の残る限り後退善闘すべし」の方針通り、本土決戦準備の時間稼ぎのために、あくまで抗戦を続けるべきであると考えていたからである。南部に追い詰められる県民の運命は、考慮の外であった。  P305より引用

記者団が会見を申し入れていた牛島司令官が姿を見せたのは、夜がかなり更けてからだった。「司令官は何時もの微笑を浮かべつつ『お早う、かね、今晩は、かね』と、朝も夜もない壕生活を象徴するようなあいさつと共に現れました。敵が首里東西の線より南東の与那原に進出、敵の包囲網が一段と厳しくなったことは認めたが、軍が南部へ撤退するとはあからさまには言いませんでした。『皆さん、今後は勝手に行動してくれたまえ』『新聞(沖縄新報の壕内新聞)発行はご自由だ』『もう軍に協力する必要はないょ』など、はぐらかしたような言い方でした。島田知事には『首里周辺に残っている非戦闘員は早めに移動するように』という命令ともつかない指示を伝えると、司令宮室に戻ってしまいました」<沖縄新報社 牧港記者の回想>
 牛島は首里放棄を口にするのを潔しとせず、また軍の機密を保持せねばならなかったかもしれない。だが、彼が赴任を望み、それに快く応じて死地に臨んだ島田が、地方長官の立場から首里放棄に強く反対していたのだから、これに反するこの目の重大決定は、島田に率直に語るべぎだったろう。さらに今後の戦局の見通しや非戦闘員の避難について、彼自身の考えなども島田に助言すべきであった。牛島については世上、「陸軍士官学校長を二度(昭和十四年と同十七年)務めたにふさわしい温厚、篤実な人格者」と伝えられ、それを裏付けるエピソードが沖縄にも幾つか残っている。しかし、この夜の牧港証言を聞けば、その人物にして、県民の犠牲を顧みる余裕はなかったのであろうか。<中略>
 島田はこんなに冷遇され、軍の首里放棄を察しながらもなお、軍司令部と行動を共にしようとした。戦場に放り出された県民の被害を最小限に食い止めるには、的確な戦況、情報を知る以外に手立てがなかったからである。 P310〜311より引用

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E5%B3%B6%E6%BA%80  牛島満 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E5%8F%A1 島田叡 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89%E5%AE%88%E7%B4%80 泉守紀 - Wikipedia