ちくま新書「自閉症」を読んで

自閉症―これまでの見解に異議あり! (ちくま新書)

自閉症―これまでの見解に異議あり! (ちくま新書)

この本は、4月頃名古屋のジュンク堂に行き始めた頃、一番最初に買った本の記憶がある。このところ、新しく本を買っていないので、「ツン読」の本になっていたものを読みあさりはじめた。(この本は、表紙が見えるように置いてあったので、あの店では比較的「押しの強い」本だったという記憶もある。)
さて、著者は副題に「これまでの見解に異議あり!」としていたが、これは途中まで気づかなかった。本を買うときにも、この副題を全く見落としていた事に気づいた。

はっきり言って、第1章はほとんど序章に過ぎない。最後まで読んで再度読んでみると、この章の意味もわからなくはない。第2章になると、自閉症と診断されてきた子どもたちに最も顕著に見られてきた『同一性の保持』を端緒として語る。「物を一列に並べる」「部屋の中の並んでいる物を動かすと怒る」とか「道順にこだわる」、「同じような行動をいつまでも続ける」ことは、「列」や「順番」「配列」に対する「こだわり」であるが、ふつうに発達をする子にも見受けられ、形を変えて長く続くものではないかと問題提起する。その上で、人類の三つの知恵として、「数(序数)」「暦」「地図」を知ったことを挙げる。
数の発見、序数や十進法のことを説明し、「私たちの暮らしが、いかに決まり切った配列や順序に支えられているか、その配列が違うといかにパニックになってしまうか。」ということを説き、それは「自閉症児特有」のものではないことを解き明かしていく。
そして、「暦→カレンダー」という展開で、「自閉症児」の中に「カレンダーを覚えるのが特技」を持つ子がいることを想起させるとともに、カレンダーそのものが持つ、空間的時間的な位置を知るためのものであることを、ロビンソン・クルーソーの話を引用して説く。その上で、P61ではこれまでの研究者に対してこう批判する。

…こうした「カレンダー」に関心を寄せることが、「自閉症児」の「病気の症状」に見られていったことは、「自閉症児」の側の問題ではなく、医師や研究者の方に、「暦」の持つ意味についての関心がなかったことにもより起こってきた出来事ではなかったかという指摘である。
 もし医師や研究者の間に「暦」についての深い関心があったなら、「自閉症児」がなぜ「カレンダー」に関心を持つのか、その人類史的な意味にもっと共感を持って接してもらえたのではなかったかと思うし、その結果「自閉症」と呼ばれてきた子どもの学問的な位置づけの仕方も違ったものになっていたのではないかとは思われるからである。


そして、著者はカレンダーに続き「自閉症児」が強い関心を持つ別の物、すなわち地図や電車や駅について考察をすすめる。

…そうして作られた地図には、だから必ず一定の「規則性」がある。その地図がもっている「目印」「順番」「配置」「座標」という規則である。その「規則」は、あまり一般性がなくても、その描き手の頭の中に一連の「つながり」としてある限り、それは他人が見ても「地図」として見えるものになっていくのである。(P70)

自閉症児が「親に関心を示さない」と言われてきたのは、関心を示さないのではなく動き回る人間に一定の規則性を見つけることが、上手にできにくいのである。(P71)

…私は今まで「自閉症児」と呼ばれてきた人たちの「順序」「配置」へのこだわりや「地図」への関心に、読者の注意を誘ってきたのだが、実は「記憶術」というのは、覚えたい出来事を、自分が思い出しやすい「目印」と、自分の知っている「順序」や「配置」を使って組み合わせて覚えてゆく「術」としてあったものなのである。だから、「自閉症児」と呼ばれてきた人たちも、そうした自分なりの覚え方(記憶術)を使って、「特異な物事の覚え」を実現できていたのではないか。そういうふうに考える可能性が私の中から出てきたのである。(P80)

こうして著者は、自らの勤務していた母子通園施設での経験や、映画『レインマン』を紹介していく。
…人間の生活は、常に誰でも、「覚えること=思い出すこと」の不思議な連携の中で営まれているのであり、その連携は思われている以上に解明されていないのである。(P124)

そこで、「関数y=f(x)」という知恵について述べ、暦も地図も関数であるという。

続いて「孤高の大著――小澤勲自閉症とは何か』」について、くわしく紹介している。

…彼はくり返しこう指摘してきた。「自閉は人と人とのかかわりのなかで生起する事態とみるべきであり、症状としてとらえるべきではない」と、(P152)


次に第4章では、「山下清」を通して、彼が線路づたいに各駅を順番に歩くことが自分の頭の中の「地図」をたどることであると指摘する。決して「放浪」などではないとしている。

…私がここで、山下清を語りながら、あえて「浅草女子短大生(レッサーパンダ帽)殺人事件」を持ち出すのは、そこに比較の要素があるからではない。そうではなくて、「知的な障害」があったり、自閉症だとされる人の性的な関心が、ことさらに「性的な犯罪」に結びつけられると、そういう人たちの外出や遠出が大きく規制される方向に世論が動くことを懸念しているからである。そういう「おそれ」があるという推測だけで、彼らを隔離し、一人で外出することを禁止するような動きの出てくることを、私はどうしても避けてほしいと思う。私が山下清論を書いているのは、知的な障害がある人でも、遠出をしたり、地域でも生きていけることを訴えるためであり、そのための支援ができていないところで、こうした「悲劇」が起こるのだということを訴えたいがためである。(P190)

そして、第5章では、佐藤幹夫の名著、自閉症裁判=「浅草レッサーパンダ事件」を考察する。この本を裁判の記録ではなく、「知的なおくれ」をもつ人が生きる「地理」をたどる記録としても読み直している。そうすることで、第二第三の類似した事件を防ぐ手がかりを得られるのではないかと訴えている。

小澤勲は『自閉症とは何か』で、再三彼らを「生活の中で見るべきだ」ということを訴えていた。私たち「先生」と呼ばれてきた者たちには、そういうことがなかなかできなかった。日々の職業的な忙しさの中ではとうてい彼らを「生活の中で見つめる」余裕などなかったからだ。だからといって、彼らを「事例」や「症例」としてみなしていいわけではなかった。でも、そうしてすませるしかないのが現実だった。
 こうして教師側に、こうした子どもたちへの「自閉」が起こる。そしてこうした子どもたちへの「固定的な見方」を開けなくなる。ある決まり切った尺度(診断基準)で彼らをみてすませてしまうことが日常化する。それも、見方を変えれば教師側の「自閉」なのだ。小澤が本の中で「自閉とは症状ではなく関係なのだ」と早くから言っていたことの意味がここにある。関係の中である人を「自閉」と見なすとき、自分もその人に対して「閉ざしている」ことがあるのではないか。小澤が「自閉は関係概念だ」と言い続けていたのは、そのことである。(P198)
佐藤幹夫はたぶん取材しながら、自分の持つある種の「自閉性」に気がついていったのではないか(P199)

…彼(ら)は「あて」なく、「ふらふら」しているのではなく、「あて」をもって彼らの「思い描く地図」をたどっていたはずだからである。
 だから本当を言えば、学校にいるときから彼らの「広がる地図」のことを計算に入れた教育がもっと展開される必要があったのである。でも、多くの教師は、彼らの能力を教室やプレールームの中だけで理解できると思ってきたところがある。………実際に彼らは学校の外(つまり生活の中)では、どれだけ行動力をもっているのか、リアリティをもって想像することができないのである。結果的には学校を出ると、行動範囲が急に広がる知的障害の人たちがいる。その行動は、家の人たちにも止めることができないから、行政や福祉が彼らを施設に隔離してしまうことを求める人たちも出てくるだろう。こういう不安が出てくるのは、実際に彼らがどれだけの行動範囲を生きているのか、ほとんど関係者は知らないからである。

そして最終章、「おくれ」とは何か

……私たちがつねに「おくれ」とともにある(P221)
……文明として「すすむ」人々がおり、それに対して「おくれ」る人々がいる(P223)
……「おくれ」は文明の抱える巨大な「成果」であり、文明はそういう「おくれ」に対して、本当はもっと寛大に、誠実に対応すべきなのである。(P226)
……私たちは例外なく誰もが「おくれ」を生きている存在であることを認めることと、そこから社会的に「おくれ」を見せる人たちには、なおさら支援の必要性があることを発想してもらいたいということを考えているのである。そして、そこから「文明(すすみ)」にとっての「おくれ」は「くらし」の「あゆみ」の中では「おくれ」にならないことがあるんだということを、もっと大事なこととして文明史的に考えてもらいたい。(P229)


この最終章を読んだとき、ほのかな感動が残った。そして、この書評というか引用譜を書く決意をした。ちなみに、「自閉症裁判」

自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」

自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」

は、この日記を書き始める2005年の12月以前に読んだので、日記では今紹介をしている。
http://d.hatena.ne.jp/ky823/20060126

また、新たなこうした本も出版されていることを知ったので、是非読んでみたい。

裁かれた罪 裁けなかった「こころ」―17歳の自閉症裁判

裁かれた罪 裁けなかった「こころ」―17歳の自閉症裁判

なお、この本でも紹介されている滝川一廣さんの本は初期の日記にこんな形で書いてある。
「こころ」の本質とは何か (ちくま新書)

「こころ」の本質とは何か (ちくま新書)

http://d.hatena.ne.jp/ky823/20051209

<追記>
amazonの書評では、賛否両論賑やかである
確かに、引用文献が古いという指摘はごもっともだが、その本が最近また出版されていることも確認しておきたい

自閉症とは何か

自閉症とは何か