中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

この本を語る上で、新宿中村屋の話が欠かせない。本書でも「なぜ、この老舗にカレーなのか?」というところから始まっている。

http://www.nakamuraya.co.jp/curry_room/index.html
新宿中村屋 - カレーの部屋

創業者相馬愛蔵は1901年の創業以来、独創的なパン・食品を作り続けた。1904年にはシュークリームをヒントに現在もポピュラーな菓子パンであるクリームパンを考案した。1927年には中国に行った時知った包子を、中国人向けの味付けから日本人向けに改良し、「中華饅頭」として売り出した。これが現在の中華まんの始まりと言われている。1918年に娘がインドの独立運動家のラス・ビハリ・ボースと結婚をしたことから、本格的なカリーの調理を学び、1927年(昭和2年)に日本で初めて純インド式カリーを販売している。
フランスパンを日本で最初に発売した京都の進々堂創業者の続木斎、そしてヤマザキパン創業者の飯島籐十郎もこの相馬愛蔵のもとで奉公していた。
新宿の中村屋本店には愛蔵・良の人柄に惹かれた文化人が盛んに来店していた。
中村屋. (2007, 9月 11). Wikipedia, . Retrieved 16:05, 9月 22, 2007 from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%B1%8B&oldid=14792817.

ここで、当然中村の相馬家の話題となって、たしか・・・・中村彝の話が思い出された
そのあたりが本書に詳しく書かれている

相馬黒光中村屋サロン(P108より引用)

 そのような折、一人の男が新宿中村屋に姿を現す。荻原守衛(碌山)であった。
 荻原は若い頃、信州穂高相馬愛蔵の禁酒運動に参加し、当時、愛蔵の実家に嫁いでいた黒光とも親しかった。荻原は黒光の嫁入り道具の油絵「亀戸風景」に感銘を受け、以降、本格的に芸術を志す。彼はニューヨークに渡り、絵画の世界で頭角を現すものの、パリヘの旅行中にロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻家に転身する。彼は尊敬するロダンから直接、指導を受け、新進気鋭の彫刻家という名声を得て一九○八年帰国した。
 中村屋を訪れた荻原は、若き頃から憧れだった黒光を再び目にし、密かに恋心を抱いた。そして、彼は黒光のもとに転がり込み、居候生活を送り始めた。
 その頃、愛蔵は一年の半分を穂高で過ごす生活をしており、その帰省先で密かに愛人をつくっていた。そのことを荻原から聞いて知った黒光は激怒し、次第にこの年下の芸術家に対して愛情を抱くようになった。しかし、そのような恋が成就するわけもなく、荻原は悶々とした苦悩の日々を過ごした。やがて、相馬家の跡を継ぐ必要がなくなった愛蔵は、東京で中村尾の商売に集中するようになった。この頃には愛蔵・黒光夫妻と荻原が同居するという奇妙な家庭が出来上がっていた。
 荻原守衛は苦悩しながらも、次第に作品作りに熱を入れ始める。一九一〇年、彼は自身の代表作となる「女」(国指定重要文化財)の製作に取り掛かる。この「女」は岡田みどりというモデルを雇って製作した作品であったが、相馬家の子供たちが完成した作品を見て、「カアさんだ!」と言ったといわれる程、黒光の面影が漂っていた。

 この作品の完成後、荻原は中村屋の裏庭に、友人の柳敬助のためのアトリエを作りはしめた。そして、そのアトリエが完成する日、荻原は大量の血を吐いて亡くなった。三〇歳の若さであった。以降、中村屋には荻原の作品が飾られ、彼の交友関係から高村光太郎をはじめとした様々な芸術家たちがここを訪れるようになった。また、店の裏庭には、柳敵前のためのアトリエとは別に、荻原を記念するアトリエが作られ、彼の作品が並べられた。さらに、人が人を呼び、岩波書店岩波茂雄や考古学者の鳥居龍三、歴史家の津田左右吉、演劇人の松井須磨子などの文化人も集まるようになった。
 一方、店も商売も、この頃には創業時の七倍以上の利益を上げるようになり、大きな発展を遂げていた。本郷の小さな店から始まった「書生パン屋」は、芸術家や文化人がこぞって訪れる名店へと成長していたのである。
 大正期の芸術・文化の一潮流を築いた「中村屋サロン」は、このようにして生まれた。

画家・中村彝と相馬俊子(P109より引用)
 「中村屋サロン」が着実に形成される中、万人の若さ天才両家がここを訪れるようになっていた。のちに近代日本を代表する洋画家となる中村彝である。
 ある時中村は、柳敏朗が結婚して出たあと空室になっていたアトリエに住みたいと願い出た。愛蔵と黒光は喜んで彼を受け入れ、以後、中村はここに住み着いた。このアトリエは六畳と四畳半の二部証で、自炊のための炊事場や便所もあった。これは裏庭に建つ離れの洋館で、お化けが出そうな薄気味悪い雰囲気を漂わせていたと言う。
 一方、この頃、穂高の実家に預けてあった長女・俊子が義務教育を終えて、上京した。両親は、俊子をアメリカ・ディサイプルス教会派の女子聖学院の寄宿舎に入れ、週末に新宿の両親のもとに帰ってこさせた。俊子はこのミッションスクールで、英語をマスターする。
 この頃、同居人の中村は、胸を病み喀血がひどかった。しかし、作品への情熱は萎えず、作品を意欲的に発表していた。そして、次第に、彼は身近にいる相馬家の子供たちをモデルに絵を描き始める。はじめは安雄の半身画を描いたが、そのうちモデルを長女の俊子に絞るようになった。当時の俊子は一五歳。その純真な表情とふくよかな肉体は、中村を虜にした。
 中村は俊子に服を脱ぐよう懇願した。中村を慕っていた俊子はそれに応じ、アトリエで密かにヌードモデルとなった。一九一三年から一四年にかけてこの俊子を描いた一連の作品群(「少女裸像」「婦人像」「少女像」「少女」「小女」など)は、中村の作品を代表する傑作となる。
 このような過程で、中村は俊子に対して強い恋心を抱き始めた。しかし、俊子のヌード姿の作品を見た女学校の先生や黒光は怒り、二人の仲を引き裂こうとした。そのような動きに反発するかのように中村の恋は激しさを増し、ついには俊子との結婚を申し出た。しかし、そのような願いは聞き入れられるはずもなく、中村は失意のうちに新宿中村屋を去った。
 俊子も母親の言うことを聞き入れ、苦悩しながら中村のことをあきらめた。

数年前、愛知県美術館で中村彝の大規模な回顧展があったとき、同館が中村彝の作品では結構よい作品を所蔵していることを知ったのだが、この作品のモデルが、今回の「ボーズの妻」であったとは!
http://images.google.co.jp/imgres?imgurl=http://www.aac.pref.aichi.jp/search/choice/image/24.jpg&imgrefurl=http://www.aac.pref.aichi.jp/search/choice/search_choice24.html&h=531&w=400&sz=67&hl=ja&start=5&sig2=ctJgiUzV2N6pT9DBfWYAlg&um=1&tbnid=rG7-7tdZxyVB_M:&tbnh=132&tbnw=99&ei=Kzz1RrC4CaKwggOb4KnhDA&prev=/images%3Fq%3D%25E7%259B%25B8%25E9%25A6%25AC%25E4%25BF%258A%25E5%25AD%2590%26svnum%3D10%26um%3D1%26hl%3Dja%26lr%3D%26sa%3DN
Googleイメージ検索:http://www.aac.pref.aichi.jp/search/choice/image/24.jpg

話は横道にそれるが、中村彝といえばなんといってもエロシェンコ氏の像であり、このページで詳しい言及もある。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-05-18 So-net blog:Chinchiko Papalog:中村彝の下落合散歩。
さらに、中村屋のページにはカレー以外にもう一つ「ボルシチ」の話でなんとエロシェンコが登場する。
http://www.nakamuraya.co.jp/history/hist_06.html 新宿中村屋 - 伝統の”菓史” - ボルシチ


さて、ボーズについて、著者は「終章」でこのように記す

………各地で収集した書順順や外交文書、彼の書いた論考の頁をめくる度に、胸が無くなった。また、徐々に彼の生涯の空白部分が埋まっていくことへの喜びが湧き上がってきた。しかし、その一方で、私の苦悩は深まるばかりだった。R・B・ボースの提示する思想には、共鳴する部分が多かった。彼のインド独立に賭ける並々ならぬ情熱にも激しく心を動かされた。その人間性にも魅了された。しかし、彼が最終的に日本の膨張主義を看過し、その軍事力を利用してインド独立を成し遂げ上うとした点に、どうしても引っかかりをおぼえた。日本に亡命し帰化した彼には、そのような道しか選択の余地が残されていなかったのだろうかという問いが、私の中で何度も駆け巡った。私は、R・B・ボースが書いた文章に向かって、そのことを問いかけ続けた。
 本文中で見てきたように、R・B・ボースは、一九二〇年代には日本の支那保全論者を厳しく批判し、日本政府や玄洋社の「支那通」たちに対して厳しい見解を示した。また、日本の朝鮮統治に対しても、立場上、公の場では明言することが出来なかったが、常に強い不満を抱いていた。インドの独立を目指す彼にとって、帝国主義的傾向を強める日本は、インドを苦しめるイギリスと同じ穴の狢であった。しかし、一九三〇年代に入ると満州事変を境に、R・B・ボースは日本の中国政策批判を完全にやめた。そして、日本によるアジアの解放というイデオロギーに、インド独立のための戦略的観点から同調して行った。
 一方、彼はインドの宗教哲学者オーロビンド・ゴーシュの思想に火きな影響を受けており、究極的には国民国家体制を超えた世界のおり方を志向していた。そして、それを実現するため、東洋精神の発露としてのアジア主義を唱えた。R・B・ボースにとって「アジア」とは、単なる地理的空間ではなく、西洋的近代を超克するための思想的根拠であり、個々人の宗数的覚醒を伴う存在論そのものであった。彼は、物質主義に覆われた近代社会を打破し、再び世界を多一論的なアジアの精神主義によって包みこむ必要があると主張し続けた。しかし、そのような理想は、「大東亜」戦争のイデオロギーに吸収され、それを補完する役割を果たした。結果的に、大日本帝国による植民地支配や「大東亜」戦争は、多くの人命を奪い、アジア諸国の人々の尊厳を深く傷つけた。
 R・B・ボースは、イギリスの植民地支配からインドを独立させアジア主義の理想を実現させるためには、日本という帝国主義国家の軍事力に依存せざるを得ないという逆説を主体的に引き受けた。「ハーディング爆殺未遂事件」などのテロ事件を主導してきたR・B・ボースは、目的と手段が乖離するというアイロニーを、避けて通ることのできない宿命と認識していた。彼はテロや戦争の限界を十分に理解した上で、なおかつそのような手段を用いなければ植民地支配を打破することなどできないという信念をもっていた。
 そして、この問題はR・B・ボーズの生涯に限定された課題などではなかった。これは近代日本のアジア主義者や「近代の超克」論者がぶつかった大きな問題であり、広く近代アジアにおける思想家・活勤家たちにも共通する難問であった。「近代を超克し東洋的精神を敏行させるためには、近代的手法を用いて世界を席巻する西洋的近代を打破しなければならないというアポリア」こそが、二〇世紀前半のアジアの思想家たちにとっての最大の課題であり、苦悩だったのである。(P330〜332)より引用

インドの独立という視点で、大東亜戦争をあまり意識していなかっただけに、大いに啓発された。


<蛇足>
本書にも登場する、もう一人のインド独立の闘士、ナイルは自ら東銀座にレストランを開いている
screenshot

http://www.ginza-nair.co.jp/hist.html
ナイルレストランのホームページにようこそ!

なぜか、Goods&Items のページに、創業者のナイルの本が載っているのがびっくり!
http://www.ginza-nair.co.jp/goods.html

大学時代に、東京へ行ったらこの店に行くように当時の助手の先生(今は教授)に教えられたうちの1軒であった
先日この店のことを妻に言ったら、「2人で行ったけど、休みだったことを覚えている」と言われた
私は全く忘れていてびっくりだった。
ちなみに、もう1軒はここである。カシミールカレーは今も忘れることができない。
http://www.delhi.co.jp/shop-ueno.html デリー上野店のご紹介