その時 歴史が動いた 第324回 日本人の心を守れ 〜岡倉天心・廃仏毀釈からの復興〜

http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_05.html
その時歴史が動いた

帰宅後夕餉の晩酌しがてら楽しんで見ることができた
廃仏毀釈のころの映像が結構多く出ていた

その時を「明治36(1903)年5月1日」としたことについて
岡倉天心や弟子の新納忠之介たちは、明治36年以前から修理を手がけている。明治30年、天心が東京美術学校の校長をしていた時代に中尊寺金色堂の諸仏を、また明治31年日本美術院を設立してからは古社寺保存法に基づく第一号として、高野山八大童子の修理を手がけた。ただし、それはあくまでひび割れなどの欠損を漆などで補充するなどの応急処置に止まっていた。ところが、明治34年から36年にかけて行われた東大寺法華堂の不空羂索(ふくうけんさく)観音像を初めとする諸仏の修理では、仏像が信仰の対象になり得るよう取り外し出来る部分を作り接合するという修理が初めて行われたと考えられている。(美術院に残る修理記録より)
その手法は現在国宝の仏像修理を主に行っている「財団法人美術院国宝修理所」にも受け継がれ、「現状維持修理」と呼ばれている。それは、遺されている姿をこれ以上損傷させないよう保持することを目的とし、部分が欠けていて信仰の対象となりにくい時は取り外し出来る部分を作って補修復元する。
美術品(文化財)であると同時に信仰の対象である仏像の修理において、こうした手法が開発された意義は非常に大きいと考え、今回の「その時」を東大寺法華堂の諸仏の修理が完成した「明治36年5月1日」とした。
ちなみに日付は日本美術院明治36年6月に発行した『日本美術』第52号に掲載された「東大寺法華堂仏像修理報告」に「去る明治34年12月23日を以って起工式を挙げ、今明治36年5月1日に至り其竣成を告ぐ」という記事に拠った。
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_05.html より引用

東大寺に行きたくなった
法華堂の不空羂索観音像や月光日光菩薩像も見たくなってしまった
今日当たり前のように思えることも、随分違った物の見方があることをあらためて思い知らされる