松本清張の美術評論

少し前に読んだ明治期の美術の本から、岡倉天心についての本を探した。その中で松本清張の「岡倉天心~その内なる敵」を読んだ。

岡倉天心 ---その内なる敵 (河出文庫)

さすがである。

4年ほど前に、この本を買って読んだのだが、これは基本小説であった。

松本清張ジャンル別作品集 : 3 美術ミステリ (双葉文庫)

それに比べると美術評論は、やや回りくどいほどの執拗な洞察だが、他の評論家のものより圧倒的に読みごたえがある。

つづいて、県図書館で「青木繁と坂本繁二郎―私論」を借りて読んだ

青木繁はわが青春のヒーローであった。そういえば10年以上前に、青木繁の親友であった梅野満雄さんの息子さんが建てた美術館を訪ねたことがある。

美術館を巡る小さな旅行 - ky823の日記(2009/08/12)

話を戻そう

この本は昭和56年1月~9月に芸術新潮に連載されたものだが、実に小気味よい。

そこらへんの美術評論家のような「しがらみ」がないせいであろう。

自分は「わだつみいろこの宮」は結構好きだったのだが、清張は次のようにばっさり切り捨てる。

青木繁は数え年三十歳で死んだ。七十、八十まで生きる大家からみれば、画家としても、また普通の人間的生涯からいっても、たしかに夭折である。しかも、三十未満にして仆れたのだから、画業としては「若描き」のままで熄んだことになる。
このことから、その「若描き」の画をもって彼の評価を定めるのに疑問の声がないでもない。その一方では、青木にもうすこし生命が藉されていたら、どのように素晴しい成長になったろうかという想像的な予見ないしは未完の期待がこめられている。
だが、青木の天才的な評価は「優婆尼沙土」「闇威弥尼」「黄泉比良坂」(第一回白馬賞)や「海の幸」の一九〇三、四年の作品に集中している。「輪転」「エスキース」「享楽」「天平時代」「海」などもこの中に入る。「自画像」(1903)や「絵かるた」もこれに含まれる。これこそ青木の短い全生涯を通じての最輝部だ。
厳密にいえば、「大穴牟知命」や「わだつみのいろこの宮」は、青木のこの栄光の中には入らない。ましてそれ以後の作品はいうまでもない。転落の一途を辿るのみであった。「漁夫晩帰」「朝日」のようにほとんど正視に耐えないくらいの大作もある。なぜか。その分析にはいろいろな意見があろうが、1903、4年のいわゆる「曙町時代」の作品群は、青木がなにものをも顧慮しないで奔放闊達に描いたという点にある。青木の不羈(ふき)な筆は、偶然にもほとんど同時にフランスで興ったフォーヴの傾向と合致した。
パリのフォーヴは白馬会の主宰者黒田清輝も知らなかった。黒田がパリから帰国したのはフォーヴに行きつくはるか以前の印象派の時期であった。まして他の白馬会員がそれを知るわけはなかった。青木のこの新しさが黒田以下をおどろかせ、感心させたのだった。第一回白馬会賞は躊躇なく青木に与えられた。

(P119より引用)

中略

・・・・彼があれほど万全の準備をし、勢いこんで描いた「わだつみのいろこの宮」は勧業博覧会で三等の末席となった。たぶん審査員は青木の描写力だけを認めたのであろう。
日本武尊」「大穴牟知命」「わだつみのいろこの宮」の制作は時期的には、前述したように、青木が福田豊吉の庇護をうけ下館や水橋村に居たときである。すでに幸彦が生れていた。その一方、青木は郷里への負担が加重していた。彼としては是が非でも有力な賞をとって画壇的な地歩を確立し、生活のメドをつけたいという、いわば断崖上に立たされた心境であった。いきおい審査員を意識した画にならざるを得ない。この妥協もしくは迎合は彼の大きな誤算であった。
黒田らが青木を認めたのは、彼流のフォーヴ的な新鮮さにあった。これまでの画壇にはなかったものである。その特徴がすっかり影をひそめた「わだつみのいろこの宮」を見ては、審査員は感動もしない。むしろ失望をしたであろう。そのたしかな腕を認めて三等末席とした。まず妥当なところではなかろう。

 中略

・・・例えば、親弟妹を捨てて栃木へ奔るような破滅型を彼は択ばず、まっすぐに久留米の実家に戻っている。彼は明治の封建的家族制度に柔順であった。それ以後の生活の破壊は、金が無いための苦しさであり、そのあまりの自暴自棄であった。死後「天オ」青木の前期(在京時)・後期(船郷後)の行動が「狂気」に見えたのは、彼が一時期「天オ」だったからである。夭折と狂気とは、天オの必須条件である。1903年と四1904年の両年に描かれたわずか数作品によって、わが国近代絵画史に画期的な業績を残し、死後「天才」の名を定着させ、幾多の評伝が書かれまた書かれつづけられるであろう青木繁は、まことに幸福な画家といわねばならない。

 全体の3分の2は青木繁に費やされ、坂本に関しても、手厳しい指摘が相次ぎ、最後はこのように締めくくっている

 青木繁坂本繁二郎とを比較しての結論をおおざっばにいえば、青木繁は日本美術史上に必要にして不可欠だが、坂本繁二郎は日本美術史上から落ちてもなんの影響もない、ということである。寺田透氏が「坂本繁二郎の死において日本の画壇は何を失ったか」と書き、「ありていに言って大したことは起らないだろう」といい、世間は坂本を「まさに過去の名匠に対する扱い」にしているが、「こういう場合、ひとはもうその影響をうけ、その存在によって変えられようとは思わないのが普通だろう」と述べている(「芸術新潮」昭和四十四年九月号)のは、いかなる美術評家よりも至言である。
寺田氏のは坂本の死(昭和四十四年七月十四日。八十七歳)の直後だからまだ遠慮がちな感想だが、この文芸評論家のほうがはるかに坂本繁二郎の絵画の本質を衝いている。