戦争と表象/美術20世紀以後―国際シンポジウム 記録集 (単行本)

8月8日に愛知県美術館の本屋で発見し、興味を持った
ひさびさの美術関係の本であるが、残念ながらamazonでの評価はすこぶる低い

国際シンポジウム戦争と表象/美術20世紀以後記録集

以下http://www.caina.jp/commodity_detail/35522587/ より引用しました

SessionI 日露戦争から15 年戦争へ〉
○再考・青木繁「海の幸」(一九〇四)――ゼツェッシオン/日露戦争  長田謙一
日露戦争の戦跡  一ノ瀬俊也
第一次大戦ドイツ人捕虜の芸術活動  安松みゆき
雲崗石窟・写真・前衛  五十殿利治
○山口蓬春と戦争表現  水沢 勉
○コメント 次なるディスクールにむけて  丹尾安典

〈SessionII アジアと日本〉
○中国服の女性表象 ――戦時下における帝国男性知識人のアイデンティティ構築をめぐって  池田 忍
  ○アジア服復活 ――岡倉天心・インド・衣服の政治生命  ブリッジ・タンカ
○美麗と哀愁 ――戦争についてのある台湾画家の思い出  蕭 瓊瑞
○ネオ・ナショナリズム/タブーを破ること/世代交代 ――ヒトラー映画
『Untergang滅亡』(『ヒトラー 最後の一二日間』)と東条映画『プライド・運命の瞬間』について  シュテッフィ・リヒター
○南京のレイプ 報道写真の多義性  若桑みどり
○コメント このセッションから学んだこと  久留島 浩

〈SessionIII 第2次世界大戦期 日本という国家と表象〉
○崔承喜の「朝鮮舞踊」をめぐって  木村理恵子
○「寓意」に代えて ――戦時期日本のシンボリズム  河田明久
○目的芸術としての戦争美術とプロレタリア美術 ―― 「昭和の美術」展を通して  澤田佳三
○戦時における機能主義デザイン ――工芸指導所の戦時期の実践とその位置  森 仁史
○大東亜における日本建築の新世紀  五十嵐太郎
菊池寛革新官僚と雑誌『日本映画』  ピーター・B・ハーイ
○一五年戦争期の博物館における〈日本〉の表象 ――「植民地博物館」との関係から   金子 淳
○コメント 戦時期日本と表象の文化政治  吉見俊哉

〈SessionIV 第2次世界大戦期 それぞれの国家と表象〉
ロシア映画の転換期 ――ソ連崩壊・戦争・民族  鴻野わか菜
○アルトゥーロ・マルティーニとイタリア・ファシズム期の公共彫刻――アオスタ公記念碑をめぐって(序)  上村清雄
○原爆体験の表象/表現――研究の現状と課題  小沢節子
○写真と戦争犯罪――第二次世界大戦における国防軍の犯罪に関する論争  ウルリケ・ユライト
○「美の帝国」――ナチス・ドイツのデザインと「喜びによる力(Kraft durch Freude)」・「労働の美」の「美的主体」形成  長田謙一
○コメント 人間の尊厳を回復するということ   三宅晶子

私としては、こうした本がもったたくさん出てほしいと思うのだが
なかなか出てこないのが残念である
あらためて、書くことはなかなかできそうもないのだが、
「目的芸術としての戦争美術とプロレタリア美術 ―― 「昭和の美術」展を通して」はよく指摘されることとはいえ、やはりおさえておきたいことである
また、最後の論考である
「「美の帝国」――ナチス・ドイツのデザインと「喜びによる力(Kraft durch Freude)」・「労働の美」の「美的主体」形成」は、アウトバーンや「フォルクスワーゲン(国民車)」]の話なども興味深く読むことができた

「労働者の自発性」というキーワードがファシズムへの進む道ともつながっていることは忘れてはいけないと思う。
ちなみに、中学1年の頃田宮模型のこれを作ったことを思いだした
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3
キューベルワーゲン - Wikipedia

ヒトラーの国民車計画とその頓挫

アドルフ・ヒトラーが1934年のベルリンモーターショウで提唱した国民車(フォルクスワーゲン)計画に従い、著名な自動車設計者であるフェルディナント・ポルシェによって、進歩的なメカニズムを備えた流線型のリアエンジン小型車が開発された。後のフォルクスワーゲン・タイプ1となる車である。1936年に最初の試作車を完成、1938年に発表された。

当初、ヒトラーはこの車を「フォルクスワーゲン(国民車)」と称していたが、最終的に1938年に、「KdF-Wagen(歓喜力行団の車)」と命名した。歓喜力行団とは、ドイツ労働戦線の一部局で労働者の余暇活動を活性化させる組織を指し、文字通り「ナチス政権下の国民車」としての意義を強調するものであった。

生産のために1937年5月28日 Gesellschaft zur Vorbereitung des Deutschen Volkswagens GmbHフォルクスワーゲン準備会社)が創立され、1938年9月16日 Volkswagenwerk GmbHフォルクスワーゲン製造会社)と名称変更。この国民車の大量生産を期し、歓喜力行団の車を生産する街 (Stadt des KdF-Wagens) までもが新しく建設された。

しかし、1939年9月に第二次世界大戦が始まると、フォルクスワーゲン製造会社は軍需生産に移行、歓喜力行団の車をベースにしたキューベルワーゲン等の軍用車両を生産、民需フォルクスワーゲンを生産することはなかった。フォルクスワーゲンを購入するために労働者は余暇活動組織 歓喜力行団を通じて積立金を支払っていたのであるが、民需生産の中止により、実際の納車はなされなかった。

戦時中のフォルクスワーゲン製造会社の生産ラインには、ポーランドウクライナ、ロシア、ベラルーシイスラエル、オランダ、フランス、オーストリアなど、近隣諸国からの約2万人もの(フォルクスワーゲン社史より)強制労働者、戦争捕虜、のちにはアウシュヴィッツ収容所の収容者が送り込まれ、日々死に直面しながら、過酷な労働を強いられた(そして実際に死に至る者も多かった)。

設計者であるポルシェも、キューベルワーゲンシュビムワーゲン以外にティーガー戦車を含めた軍用車輌開発に従事していた。そのような情勢で、フォルクスワーゲン計画は立ち消えた形になったのである。

現在のフォルクスワーゲン社は、戦前のフォルクスワーゲン製造会社とは別会社ではあるが、ドイツ政府とは別に、1998年に一企業として戦争補償プログラムをはじめた。フォルクスワーゲンの長い歴史においては、このような光と影の両面を理解する必要がある。
フォルクスワーゲン. (2007, 7月 19). Wikipedia, . Retrieved 16:00, 8月 20, 2007 from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3&oldid=13754258.