2-1 2−2 松木喜八郎と渡辺庄三郎
吉田博は1920年(大正9年)、松木喜八郎の紹介により、「明治神宮の神苑」を渡辺版画店から版行し、明治神宮奉賛会において出版、頒布をしている。以降、若手の画家たちを説いて新版画の製作を続行していくが、その存在が世間に知られるようになったのは、1921年(大正10年)の初夏と1922年(大正11年)の春に白木屋において新作版画展覧会を開催、好評を得てからであった。翌1923年(大正12年)には、自著『浮世絵師一覧』を刊行したが、9月1日に起こった関東大震災によって、渡辺木版画店も被災、店内に有った完成画及び版木の多くを焼失、それまで積み上げてきた貴重な財産の大半を奪われた。僅かに焼け残った版画や錦絵も、生活そのものが混乱していた当時では商売にはならず、庄三郎は上野御成道に移った版画店店舗において便利瓦を販売せざるを得なかった。この大震災が巴水らの新版画にかかわった画家たち、そして彫師、摺師に与えた打撃は計り知れず、狭義の新版画はこの震災までであったとする見解もある。しかし、実際に新版画を担った画家たちの画業はその後、一層開花、新版画の製作も継続されていった。
渡辺庄三郎 - Wikipedia
3 小林喜作と庄吉
このページが詳しい
第14回 日本アルプスへ 吉田博旅 | 旅の紹介 | 日美旅ブログ|NHK日曜美術館:NHK
4 マッカーサーとティルトン
この2人の話しはあまりされなかったのか。自分が居眠っていたのかもしれない。
マッカーサーの夫人がアトリエを訪問したのは有名らしい。
日本と海外での評価の落差をここでも感じる。
吉田博アトリエを改めて拝見する。:落合道人 Ochiai-Dojin:So-netブログ
戦後は、欧米での知名度が高かったせいか、吉田のアトリエは進駐軍の芸術サロンのようになった。敗戦直後の1945年(昭和20年)の秋には、いち早くダグラス・マッカーサー夫人も、下落合のアトリエを訪問している。米軍のバンカースクラブ(将校クラブ)での版画講習会や、参加者をつのってアトリエ見学会が毎月開かれるなど、吉田作品の人気はきわめて高かった。
5 ベン・ブルース・ブレークニー
陸軍少佐として占領軍将校であったブレイクニーは、東京裁判の弁護人となり、東郷茂徳・梅津美治郎両被告を担当した。国際法と外交関係に詳しく、ジョージ山岡と並んで日本語を解する数少ないアメリカ人弁護人の一人でもあったことから、日本人弁護人の知らないアメリカ側の資料を活用するなど、法廷では随所で重要な役割を果たした。この事から、現在ではブルーエットやファーネスとならんでアメリカ人弁護人の代表的存在として知られている。
開廷早々の管轄権問題では、国際法に戦争に関する法規があることから戦争は犯罪ではないと主張し、検察側立証段階では、有効な反対尋問を行った。特に、弁護側反証段階の冒頭で、アメリカの原子爆弾投下問題をとりあげたことは有名である。
ベン・ブルース・ブレイクニー - Wikipedia
かれは、吉田博の本を書きコレクターでもあったそうだ。今でもアメリカのアマゾンで売っている。
Yoshida Hiroshi: Print-Maker (Offprint): Ben Bruce Blakeney: Amazon.com: Books
Yoshida Hiroshi: print-maker
6 ダイアナ妃とエジンバラ公
時間切れで、今度の日曜美術館の再放送をみて欲しいといわれて残念無念。
7 徳川家と津軽家と北白川祥子
ここに詳しい
下落合を描いた画家たち・吉田遠志。:落合道人 Ochiai-Dojin:So-netブログ
実際このプリントに沿って話されたわけでもなく、ここまでが限界。
ところで、このサイトで売ってる吉田博もなかなかよい
Japanese Woodblock Prints | Bassett Fine Prints
Hiroshi Yoshida
ここでも売ってる
Era Woodblock Prints - Vintage Japanese Art - Search
「光る海」が、 $5,200.00 ではないか!
?$5,200.00