田沼意次

 

藤田先生のつながりでこの本を読む

 はじめて知ることばかりで、驚くことが多かった

(ところで、このところスマホのアドビscanが重宝する 気になったところは、pdfで保存できる 以下もそれを使ってスマホに入れて置き、繰り返し読むことができる 借りてきた本には特に良い)

 

筆者のあとがきにはこうある

執筆の依頼をうけた田沼意次は、松平定信を中心にして寛政の改革について書いたときには、一方的に悪者として登場し、その政策は否定されるべき悪政でしかなかった。しかしそれは、松平定信寛政の改革からみた田沼意次とその政策であり、一面的な、あるいは不公平な見方にすぎない

 

田沼意次には、意次みずからが書き残したものがあまりに少ない。とくに、本人の肉声が伝わってくるような素材が決定的に乏しい。松平定信などは、老中として関係した重要な案件について、政策を決定する過程まで伝える史料をたくさん残し、さらに自叙伝や思索を伝える著述も残した。また、意次を批判する文書や風聞を書き留めた史料は豊富にある。これでは、意次と定信を比較したときに、圧倒的に意次は不利である。しかし、十八世紀の日本という時代の政治や経済のあり方のなかに、田沼意次という人物とその政策をおいてみると、また違った評価が出来る。

六00石の旗本から五万七000石の大名に、小姓から側用人を経て老中になぜ出世できたのか、そしてなぜ利益を追求した大胆な経済政策を行なったのかについて、十八世紀の江戸幕府の権力構造と江戸幕府財政問題を中心に考えてみた。十八世紀の江戸幕府の権力構造と財政問題が、田沼意次という人物と経済政策を生み出した、という風に理解しようと試みた。また、意次が活躍した宝暦から天明期、すなわち田沼時代は、国学蘭学(洋学)、儒学などの諸学問、さらに美術や文学などの多方面に多彩な文化が著しく発展し、充実した時期である。小身の旗本が大名に、そして老中になったという経歴を持つ田沼意次の政治や個性が、なにがしかの影響を社会に与えたのではなかろうかと考え、その関係を探ってみた。

自然災害(浅間山の噴火・印旛沼の工事中での大水など)への対応は少し考えさせられた

 

アマゾンの書評にもあるように、155ページの内容が考えさせられる

自然災害と凶作が相つぐなかで、ロシアとの貿易、蝦夷地の開発や印播沼の干拓などの大開発構想、国民から広く薄く資金を集め大名らに融資する「幕府銀行」構想など、きわめて大胆かつ積極的な政策を意次の主導で打ち出した。しかし、幕府政治はどこに向かってゆくのか一部に深刻な不安を与え、また、広く薄くとはいえ新たな負担をかけられた国民は激しく反発した。大胆な政策は行き詰まり、立ち往生してしまった。この政策の行き詰まりこそ、意次を辞職させ、失脚させ、田沼時代を終焉させたのである