「国家の品格」を読む

題名からしてためらいがあったが
怖さ見たさで・・・・昨日一気に読んでみると
ひとこと「読みやすくおもしろい」
キーワードで国家の品格はすでに登録されており
多くの人が言及されていた

自分は著者の主張には納得したり、疑問を感じたりいろいろであるが
次の部分は、付箋を付けた

 「卑怯」を教えよ(P63)
 いじめに対して何をすべきか。カウンセラーを置く、などという対症療法より、武士道精神にのっとって「卑怯」を教えないといけない。「いじめが多いからカウンセラーを置きましょう」という単純な論理にくらべ、「いじめが多いから卑怯を教えましょう」は論理的でないから、国民に受けません。
 しかし、いじめを本当に減らしたいなら、「大勢で一人をやっつけることは文句なしに卑怯である」ということを、叩き込まないといけない。たとえ、いじめている側の子供たちが清く正しく美しくて、いじめられている側が性格のひん曲がった大嘘つきだったとしても、です。「そんな奴なら大勢で制裁していいじやないか」というのは論理の話。「卑怯」というのはそういう論理を超越して、とにかく「駄目だから駄目だ」ということです。この世の中には、論理に乗らないが大切なことがある。それを徹底的に叩き込むしかおりません。いじめをするような卑怯者は生きる価値すらない、ということをとことん叩き込むのです。
 しかし、政府も官僚も「識者」と称する人たちも、戦後六十年もたち、「論理的に説明できることだけを教える」という教育を受けた人ばかりになってしまったのです。 論理が通ることは脳に快いから、人々はこのようにすぐに理解できる論理、すなわちワンステップやツーステップの論理にとびついてしまう。従ってことの本質に達しない。いじめ問題なんか典型です。こみいった問題の解決を図ろうとしたら人間性に対する深い洞察が必要になる。
 実はワンステップやツーステップの論理の跳梁は我が国ばかりではありません。世界中がこれに冒されています。欧米の支配を支えてきた論理や合理ですが、実はそれらのほぼすべてがワンステップやツーステップで彩られているのです。

この視点で「いじめ」が撲滅するとよいのだが・・・・

それにしても、「国家」という言葉がどこからどうして出てくるのか
いまいち分かりかねる
また、まことに失礼なたとえかもしれないが
新書版のTVタックルか?