愛国心のゆくえ

「愛国心」のゆくえ―教育基本法改正という問題
広田照幸氏の本をはじめて読む
今後もいろいろと読んでみたい
国会の行方も多少気になるところであるが
どうやら今国会での改正案の成立はなさそうであるが・・・・

I 「心」は統治できるのか (P86)
 安易すぎる「心」の教育という考え方
 「心」の教育が中教審の答申で示されたのは、一九九八年のことである。その前年には、神戸で中学三年生による児童連続殺傷事件が起きており、相次ぐ青少年の凶悪事件が社会的な問題とされるようになった。このような青少年の犯罪が起きるのは、学校で「心」の教育がなされていないことが原因の一つだとした橋本龍太郎首相(当待)の要請で、家庭でのしつけの重要性などとともに、答申に「心」の教育が盛り込まれたのである。
 今回の教育基本法改正の動きでは、「心」の教育をさらに発展させて、さまざまな徳目で子供たちの内面を教育することがめざされている。しかし考えてみると、そもそも、「心」の教育などというものが可能なのだろうかという疑問が湧く。そのようなことを法律に書き込んだからといって、子供たちの「心」がすぐに変わるなどとは到底思えない。一般に、教育においては、知識を伝達することは比教的容易で、また、伝達されたか否かを確認することも可能である。それに対して、「心」や「態度」を教育のターゲットにすると、働きかけも難しいし、効果の測定もおぼつかない。もしも「心」の教育が待なわれたとして、それが十全に機能する場合というのは、おそらく次のような教育だろう。
1 被教育者が教育者にパーソナルな関係であらかじめ心酔する場合
 被教育者が教育者の人格に強い尊敬の念を抱き、かつ両者の関係が密接であるなど、いくつかの 条件が必要で、ケースとしては稀である。
2 情報が全面的にコントロールされる場合
 力ルト的な集団や宗教団体で見られるマインド・コントロールは、主としてこの手法によるもの である。何かを考える時に、考える材料としてあらかじめ特定の情報しか与えられていない場合 に可能となる。
 1はかつての私塾や芸道の世界には見られるし、力リスマ的な教員やきわめてユニークな実践で知られるような学校なら、現代においても可能かもしれない。しかしながら、ごく普通の力量の数十方人の教員と数百万人に及ぶ雑多な子供たちが構成する現代の学校では、このような関係を期待したモデルを構想するのは無理である。2は、そもそも自由社会の原理に反しているし、情報が多元的に存在し子供たちの学校への関与が部分的なものであるだけに、公教育のモデルにはなりえない。
 以上の二種類の教育とは違う条件で「心」の教育を行なおうとする場合は、せいぜい、一部分の被教育者への一定程度の深さと浅さ(人によって異なる)をもった影響にとどまるにすぎない。現代の教育問題・青少年問題の多く−いじめ、不登教、学級崩壊、非行等−は、学校的秩序になじまない青少年や、そうした秩序とは無縁な世界の方にコミットする青少年たちによって生まれているのだから、「大人たちが最も教育したいと思っている種類の青少年は、既存の教育関係に最も乗ってこない存在である」ということがいえる。大人たちが一番教育したい青少年ほど、「心」の教育なんかには影響を受けないのである。
 少年たちを長期間にわたって二四待間収容し、反省・自省や自立に向けたさまざまなプログラムをもち、熱心な職員が指導に当たる少年院(日本のそれは比較的成果をあげているとは思うのだが)ですら、少年たちに与える持続的な影響は限定的なものである。ましてや、ごく限られた期間に、大勢に交じって教育を受けるにすぎない学校で、さまざまな逸脱可能性をもった子供たちがあまねく馴致されるようなことは、想像のしようがない。だから、教育基本法を改正して徳目を盛り込むことで、青少年の逸脱やさまざまな問題を解決できると者える改正論者の期待は、おそらく外れることになるだろう。

 「道徳教育で解決」は幻想
 教育基本法改正論者は、その意味で、「教育の力」を過剰に信じている人たちだといえる。彼らの議論は実に乱暴である。たとえば、町村信孝文部科学大臣(当時)が、二〇〇一年二月の報道陣との懇談の中で、不登校は、戦後教育の欠陥だと思う。はき違えた個性の尊重やはき違えた自由、子どもの権利の行き過ぎが不登校を生んだ。そうならないようにするために道徳を行う」と述べている(『日本経済新聞』二〇〇一年二月三日)。道徳教育を行なえば不登校がなくなるというのは、教育学的には、これはまったく根拠のない議論である。皮肉な言い方をすれば、政治家のスキャンダルから青少年問題、環境問題まで、世の中のあらゆる問題の「原因」を道徳教育の欠如に求める議論は可能である。しかし、それは個々の問題の固有の性質を吟味し、有効な対策を選択する慎重さに欠けた暴論である。道徳教育ですべてを解決しようとするのは、教育に無限の方を期待する向こう見ずな「教育万能主義」的発想による幻想にすぎない(広田二〇〇三a=『教育にはなにができないか』春秋社刊、同二〇〇五a『教育不信と教育依存の時代』紀伊國屋書店刊)。むしろ、不登校にせよ、非行にせよ、簡単にはなくすことはできないけれども、原因や対処法をていねいに考察し、彼らの受け皿を作ったり、学力保障や進路保障の手立てを論じるなど、具体的な手段を採用していくことのほうがよほど有効だろう。
 改正反対論者が盛んに喧伝する「愛国心刷り違まれ論」にも、同様の錯誤があることがわかる。もし「国を愛する心」が教育基本法に盛り込まれたとしても、だからといってすべての子供たちがすぐにナショナリストになるわけではないだろう。第1章でも簡単にふれたが、今回の改正によって教育基本法に盛り込まれようとしている徳目の多くは、実はすでに学習指導要領に盛り込まれ、子供たちに教える努力が実質的になされてきている。にもかかわらず、そんな徳目や価値は、青少年には簡単には伝わっていないのだ。