勉強していたい! | NHK 土曜ドラマ

http://www.nhk.or.jp/dodra/benkyou/index.html
勉強していたい! | NHK 土曜ドラマ

第1回の放送は吉本新喜劇〜エキサイティングツアー’07http://d.hatena.ne.jp/ky823/20070819#p1の帰り道
車内で見ていた。でも、最後までは見ていなかった
そしたら、先週の土曜日のスタジオパーク
いろいろと紹介されており、第2回はしっかりと録画して視聴した
そこで紹介された2冊の本も、ジュンク堂であっさりゲットし速攻で読んだ

この2冊は重複するところも多いし、ドラマとはかなり違った内容であることもわかる
作者と私は一つ違いでほぼ同世代、しかも「授業の出前、いらんかね。」の後書きで、
仲間として大学の美術教室の同級生の名が記載されており感動した。(バリ島にアトリエをもつ画家教師)

作者は、愛知県の管理教育や現状の教育諸政策に対してなかなか共感できる考えをお持ちのようだ
これまでの身体的な障害や疾病などに加えて、今後は知的障害や発達障害に関する問題にも
拘わらざるおえない職場への転勤をされたようである

そのような先生の原作が、NHKで放送されることに少し驚きもあるが……

ところで、大変に示唆深いすてきな表現があったので、長くなるが引用してみた(翌日8/27追記)

15メートルの通学路 (角川文庫)

15メートルの通学路 (角川文庫)

P24 同行する人 より引用
 大半の教師は、欠点も多く持つ平凡な人間だ。そんな普通のヒトビトが「自分は『信頼できる他者』なのだ」と独りよがりの錯覚を抱いて、教師コトバを連ねて子どもに迫っても、その先にあるのは何も変わらぬ現実か増幅した不信くらいのものだろう。
 凡庸な我々にできることは、子どもが疲れたときにわずかの支えになったり、どっちの道に行けばいいのとたずねられたときに(そんなことが、もしあればだ。現実にはそんなにあるわけではない)「う〜む。センセイはこっちだと思うが……」などと呟く。それくらいのものではないか。
 多い病気を患うこどもたちと接することが長くなるにつれ、自分は身に付けていた「教師としての常識」のようなものを削ぎ落としてきた。

授業の出前、いらんかね。 (文春新書)

授業の出前、いらんかね。 (文春新書)

第四章 教師にできること、できないこと 
 「病訪」の大黒柱   P138〜P143より引用 強調はky823
 教育の場では、こども集団があるか否かということは決定的な問題だ。「いじめ」や「学級崩壊」などの問題が取り上げられていることで、「集団」というものは何やら悪影響を及ぼすものというイメージで捉えられがちだが、本来こどもたちが育っていくとき「集団」は欠かすことのできないものである。
 こどもたちが意欲を持ったり、前向きに日々を過ごそうとするとき、そこには間違いなく信頼できる他者の存在がある。信頼でき、仲間と思える人間がいるからこそ、日々は楽しくもなるし、競いあって努力することも可能になる。集団には教育力があり、教師はそこに依拠しつつ教育活動を展開することも多い。
 だが、「病訪」は違う。先生ひとりに生徒ひとりの「学校」だ。小中学校や院内学級のように、クラスメートがいるわけではない。こどもたちはいつもひとりだ。人間の集団の持つ前向きのパワーに勇気付けられたり、仲間からの教育力に期待することはできない。集団の教育力に依拠できる小中学校や院内学級と、個別に働きかけをする「病訪」では指導方法に相違があるのは当然のことだ。
 健康なこどもたちにとって、未来は希望や夢と共に望見するものである。「大きくなったら……」「大人になったら……」。後ろに続く言葉は、悲嘆や諦観の類ではない。だが、重い病気であることを知らされたこどもたちは違う。
 かれらはある日突然病気であることを告げられる。四肢のいずれかを失う子がいる。手術を受けて、その後の生活に大きな制約を受ける子もいる。退院といっても寛解(=病気そのものは完全に治癒していないが、症状が一時的あるいは永続的に軽減または消失すること。特に白血病などの場合に用いる語。)であり、再発の不安を抱きながら日々を過ごすことも稀ではない。
 本当に自分の病気は治るのだろうか。強引に理不尽に切断されてしまったそれまでの日常は、いつ戻ってくるのだろう。必ず元気になって元のような生活に戻る――そんな希望を抱きながらも、不意に襲ってくる不安は膨らみ出すととどめることができず、悲観と絶望に包まれた未来しか見えなくなることだってある。
 そんな揺れる感情に翻弄されながら闘病生活に入った子どもの待つ病室に、私たちは教師として出向き、自分と、言葉と、教材だけで迫っていく。焦れば、こどもたちは心を閉ざし、教師と授業を拒否する。
 週に一度か二度、それも短時間だけ訪れる私たちにできることは、安易な励ましを口にしたり、実感として感じられない「希望」を声高に語ることではない。ましてや勉強が遅れてしまうぞ、などと脅かしながら学習を催促することではない。
 ――こどもたちが、「いい子」でない姿や感情を見せても、教師臭い批評を加えたりお説教など決してしてはならない。ふさぎ込む子には、冗談を飛ばし、手品でも披露して、とりあえず傍にいることを嫌がられないようにすること。
 人間のこどもは、能動的な生き物である。落ち込んでいても、いつかどこかで明るく意欲的な姿を見せるようになる。そのときようやく教師の仕事を始めればいい。なかには気持ちを立て直せないまま、長い時間を過ごす子もいるだろう。そんな時は黙って脇にいるしかない。結局のところ教師などというものは、こどもたちの内なる力に依拠しつつ、彼や彼らに寄り添うことしかできないのだ――。
 失敗や後悔を繰り返しつつ、私たちは次第にそう考えるようになった。それは経験から生み出した実践においてもバックボーン、困ったときに頼るべき大黒柱というのは些か寂しい気がするが、それもやはり大黒柱なのである。

 ○○の担当の看護師に「無責任ではないか」と詰め寄られたとき、「この正義感溢れた若い看護師に理解してもらうのは、もう少し先のことだ。彼女は不信感を募らせるかもしれないが、それもまぁ仕方ない」。私はそう思っていた。
 片足を失ったばかりのこどもに対し、学校や教師の「常識」を押しつけたり、学習せよと迫ることは、一見責任を果たすようであるが、実のところは教師である自分がどう見られてるかということを優先して考えているということであり、本当の意味での責任を放棄しているのだ。
「病訪」を長く経験する同僚なら、○○のような子に多彩な教師言葉を駆使して「勇気付け、励まし、動機付けをし、学習へのモチベーションを高める」などということは決してしないだろう。
「授業が嫌なら、仕方ないさ」そう考えて、雑談をしたりゲームをして遊んだりする。それさえ気乗り薄のときは、「また来るから」そういって、あっさり学校に帰ってしまうに違いない。
ふさぎ込むこどもたち相手に強引に授業をするよりは、職員室でお茶でも飲んでいた方がいい――。出前教師たちは周囲から見ればあっけらかんとして見えるような対応をとる。
 このような姿勢は「学校の常識」とは、やや距離がある。共感的に理解してもらえるものでなく、○○の担当看護師が感じたように「意欲のない無責任教師」という評価を受けることがある。
 だが、生徒ひとりに先生ひとり、という特殊な形態で授業をする「病訪」では、ときに「学校の常識」から逸脱することも必要になる。教師の価値観や学校の常識をむき出しのままこどもに押しつけることで、かえって悪い結果を招くこともあるのだ。

(中略)

「病訪」においては、健康なこどもたちが通う学校や院内学級とは「教育」のありようが異なることがあり、周囲に諒解されるのに時間がかかる。私たちの仕事に、もし「苦労」があるとすれば、そのようなものだろうか。