週末

今週もよく働いたと思うが
自分が思うほど果たして・・・・・
帰りがけに書店による
これも週末のなせる技か?

かねがね購入を考えていた「下流社会」を買う
同時に死の雑学を買う

ここ数ヶ月は比較的読書ができる幸せなことである

下流社会は,はじめのうちはすらすら読めたのだが
調査の図表がやたら多くて・・・・
うーんなんとか最後まできたら
次のような目の覚める文章が出てきた
多少長いが引用する P264より

そういえばこういうことがあつた。ある大企業のデザイナーや商品企画の担当者を連れて、下北沢の街を歩いたことがある。若者に人気の下北沢を歩いて、若者の気分を肌で感じようという狙いだ。
 ところが、その企業のある人が突然怒り出したのだ。下北沢という街は、店が始まるのが遅い。午前11時なら早い方で、12時とか午後1時に開店する店も多い。店員はフリーターが多いし、衝に来る若者もフリーターが多い。だから、お昼時でもまだ町全体にエンジンがかからず、寝ぼけたような感じがする。
それでその人は頭に来たのだ。おれたちは毎日夜遅くまで残業しているのに、こいつらは一体何だ! そう言って彼は途中で帰ってしまったのである。
 これは単に、真面目な人と、だらしない人の対立ではない。正規職員として真面目に働く中流と、非正規職員としてだらだら生きるしかない下流の対立かも知れない。
 そして、いつか、上流や中流下流を慮ることがなくなる。ブッシュがイラクの庶民の暮らしを慮らないように。いや、アメリカの失業者層の気持ちすら慮らないように。
 少数のエリートが国富を稼ぎ出し、多くの大衆は、その国富を消費し、そこそこ楽しく「歌ったり踊ったり」して暮らすことで、内需を拡大してくれればよい、というのが小泉−竹中の経済政策だ。つまり、格差拡大が前提とされているのだ。
 しかし失業率5%、若年では10%以上の状態が恒常化し、毎年4万人近くが自殺して、
それでも大衆はそこそこ楽しく生きていると言えるのか?

 だが国民も、格差の是正をすべきだと考える人が減っている(内閣府『国民生活選好度調査』)。むしろ格差の拡大はしかたがないと考える人が増えている。頑張っても頑張らなくても同じ「結果悪平等」社会より、頑張らない人が報われることがない格差社会の方を、国民も選択し始めているようにも見える。
 階層の固定化を防ぐには?
 しかし、そういう国民も階層格差の固定化は望まないだろう。親が下流だと子供も下流になるしかない社会がよいとは思われない。 そこで下流社会の基本方針として考えられるのが「機会悪平等」だ。所得の低い人ほど優遇される様々な措置である。 これまでの日本は「結果悪平等」だった。頑張っても頑張らなくても、能力があつてもなくても、給料の差はあまりなかった。
 私は20代のサラリーマン時代、人より非常に仕事が速かった。だから残業が少なく給料が少なかった。25歳で月の手取りが25万円ほどだったと思う。能力が低く、仕事が遅い人間は、40万円近くもらっていた。
 しかも仕事の速い私は、次々と多くの責任ある仕事をこなした。28歳で雑誌の編集長になった。本来課長か部長のすべき仕事を28歳の平社員が行って、それでも給料は平社員としての給料でしかなく、しかも仕事が遅くて残業代の多い後輩よりも少なかったのだ。 これは「結果悪平等」を通り越して「結果逆差別」みたいな現象である。 こういうことはよくない、「結果不平等」型の成果配分をするべきだというのが、ここほ年ほどの成果主義の風潮である。
 しかし、成果主義が徹底されればされるほど、所得格差は拡大し、長期的には階層格差が固定するはずである。となると、機会平等は実現不可能となる。
 典型的なのは教育の機会。上流はよい教育を受けられるが、下流は受けられない。親が上流だと子供も上流になりやすい。逆もまた真なり。 そこで、階層格差の固定化を避けるためには何が必要か。必ず言われるのが、機会均等のさらなる徹底だ。
 完全な機会均等とは、親の経済力、職業、地域社会の特性など、子供が自分で選択できない外的な環境の差から来るすべての不平等をなくすということである。親が貧乏でも、低学歴でも、地位の低い職業に就いていても、教育観が間違っていても、無気力でも、そして住んでいる地域全体がそういう人の多い地域であっても、その子供に能力があれば、どんなに高い教育でも受けることができ、どんなに地位の高い職業にも就くことができるということである。能力があっても意欲がない子供もいるだろうという反論もあり得るが、今日の教育社会学は意欲もまた階層が規定すると言っている。とすれば、完全な機会均等社会では、階層に規定された無気力は存在しないことになる。
 しかし、こうした完全機会均等論は解決しがたい問題を内包している。 すなわち、もし、完全なる機会均等社会が実現したら、結果の差はすべて純粋に個人的な能力に帰せられる。しかしそれはそれで非常に過酷な社会ではないかと思えるからだ。 おまえの成績が悪いのは、親が貧乏だからでも、低学歴だからでもなく、ひとえにおまえの頭が悪いからであり、勉強や仕事に意欲を持てない性格だからなんだということになつてしまう。言い訳がまったくできないのだ。 そしてそれは究極的には、頭の悪さや無気力の原因を遺伝子に求めることになり、悪しき優生思想にたどりつく危険がある。近年のテレビ番組などにおける脳ブームやⅠQブームは、そうした優生思想をオブラートにくるんだものだと言えないこともないのである。 だから、もちろん機会均等は重要なのだが、それよりも求められるのは「機会悪平等」の
仕組みなのではないか。 具体的にはどんなことか?

 (1) 下駄履き入試
 親の階層が低い子供は学力が低い傾向があり、それは遺伝ではなく、家庭環境のためであるとするなら、大学人試で、親の所得の低い家庭の子供は合格点数を下げればよい。いわゆる「下駄を履かせる」という方法である (ついでに所得の高い親の子弟は合格点を上げてもよい)。
 階層格差の拡大、固定化が問題だとおっしゃる佐藤俊樹先生や苅谷剛彦先生や楠木俊詔先生がおられる東大や京大でまずは低所得者下駄履き入試を実施してみてはいかがだろう。それが無理なら『ドラゴン桜』 のように偏差値の低い中学・高校ほど指導力のある教師をたくさん送り込むべきであろう。

 (2) 東大学費無料化

 近年国立大学の学費がどんどん上がっている。私の頃は年に2万5000円から5万円に上がっただけでも民青が大騒ぎしたものだが、今は50万円もする。国家有為の人材を育成すべき国立大学でなぜこんなことをするのか、私にはまったく理解できない。 すべての国立大学の学費を元通り安くすることができないというのなら、世に一流と言われる大学に限って、学費をただにするか、安くするべきだ。要するに東大、京大あたりから学費無料にするのである。
 そうすれば、一流大学進学をあきらめている下流家庭の子供も、上京をためらっている地方の子供も、頑張って勉強をする動機付けができる。そして下駄履き入試で受験すれば、めでたく合格の可能性も広がる。
 合格しさえすれば、あとは本人の努力次第。勉強をしっかりすれば大企業にも中央官庁にも就職できるだろうし、医者にも税理士にも会計士にもなるチャンスが拡大する。友人関係も広がる。階層上昇のチャンスが広がるのだ。下流の人にこそ、そういうチャンスを優先的に与えるべきだ。
 もちろん、本当はすべての教育費を無料化するのが一番よいことは言うまでもない。低所得家庭は学習塾費用を非課税にしてもよい。
 また、学費が高いと、大学進学を機に、親元を離れて一人暮らしをしにくくなる。結果、パラサイトが増えて若者の精神的・経済的自立が遅れる。学費無料化は若者の自立を促すのだ。

 (3) 大学授業インターネット化

一流大学の授業はすべてインターネットで放送し、世界中どこにいても受けられるようにする。地方在住者にとって、東京に集中している一流大学への進学は非常に生活費がかかりそのために進学を断念せざるを得ないケースがある。インターネット授業をすれば、授業料
が高くても、生活費が不要となるので、貧しい地方の貧しい家庭には朗報だ。地方の有為の人材を開拓できることは社会全体にとっても有意義だ。

 (4) 地方から東京へ進学した場合の資金援助

 インターネット授業が広がっても、やはり東京で暮らし、友人を作ることが階層上昇のためには有利だ。だから東京での生活を支援する資金が欲しい。 そこで、地方自治体がお金を出して、優秀な人材、意欲的な人材を選び、東京への進学、生活資金を補助する。
 地方から東京に行ぺ若者を増やすことは、第8章で書いたように、都市を活性化し、ひいては日本の経済や文化を活性化するというメリットもある。それだけでは地方にメリットがないというのであれば、逆に、東京の大学を私費で卒業した若者が地方に戻って来た場合、かかった学費を支払うという制度があつてもよい。

 (5) 上流には 「ノブレス・オブリージユ」 (高貴なる者の義務)を

 下流階層への悪平等的支援と共に、上流に対しては所得や地位にふさわしい義務を課すべきだ。近年の税制改革は高所得者優遇となっているが、税金ではなく、寄付の形で富を社会に還元することがもっと常識になるべきだろう。 日本経団連では90年代から「1%クラブ」という活動をしている。加盟企業が、経常利益の1%を社会貢献に使おうという活動である。
 これと同じように、所得が1000万円ある人は1%を寄付する、3000万円あれば3%、5000万円あれば5%、1億円あれば10%を寄付することが上流としての高貴なる義務であり、社会的な名誉でもあり、当然だれもがそれをすべきであるという風潮をつくり出すべきであろう。
 金を出す側から見ても、何に使われたかわからない税金よりも、どんな団体・個人がどんな活動をするかが透明な寄付の方がよいという側面もある。 環境関係団体の研究活動に寄付するのか、高齢者関係団体の介護活動に寄付するのか、あるいはフリーター対策関係団体の青少年教育活動に寄付するのかなどによって、寄付する人の個性も出るし、社会的な承認を得ることで満足感を得ることができるだろう。