修行

本日届いた教育新聞にこのような記事があった

修行  
武者小路千家家元 千宗守

茶の湯(茶道)を伝授することをその業として約40年近くになる。この世界は老若男女あらゆる立場の人々がその門を叩く。その中でも私が最も心血を注いでこの道の技を伝授してきたのが、将来これを終生の職業として入門して来る20歳代から30歳近くの若い人達である。
 彼等の人によっては10年余に及ぶこの教育の事を「水屋修行」と通称する。水屋とは茶室に必ず付属してその隣室に設けられる準備室、もしくは控室の事である。
 茶の湯は御承知の娼く、水回りの仕事が多く、そのために給排水の便宜も整えてある処から「水屋」との名称が与えられ、そこでのノウハウを覚える事が茶の湯の基本になり修行の第一歩でもあるため、そこで学ぶ事の多い彼等の勉強の事を前述の如く通称するのである。
 西洋の技芸、例えば音楽にせよ絵画にせよ、その修練の方法は将来のプロ、アマを問わず一般的には同じメソードで行われる。そしてそのメソードも長い歴史の中で完成されていて、そのメソードの熟達の度合によってプロとアマとの差異が出来、少くとも両方ともスタートの時点では同じ処(方法)から始まる。

 それに対し東洋特に日本では技芸への修練は、プロ、アマとは全く違った方法をとる。もちろん、我国の技芸にもその歴史の過程で培われた前述のメソードは完備している。そして入門者には初歩の段階から懇切に伝授してゆく。
 しかし終生の業としてそれを始める者には全く異った態度で臨む。それは一口で申せば「一切何も教えない」という事である。 もちろん茶の湯を楽しみで学ぼうとしている人々に稽古場(茶室)で伝授している場には、先程の水屋に待機させている彼等も時には入って見る事は許される。 しかし手とり足とりの伝授は彼等には一切行わない。
 茶の湯の精神的基盤である禅宗のそれも本山に付属する専門道場 (僧堂)では最高の教育者とは最もよく弟子 (修行僧)を感わす老師であるとも極言する。即ち問答の解答を説くのではなく、一旦正解とは程遠い処へ導く様な指導をするそうである。 まさにこの世界も専門家たらんとする者には入門の段階からこれに近い方法で臨んでいたのである。 そしてこれを「修行」と称するのはその定義「一本立ち出来るより高い段階を目ざして技芸について日夜くふうを凝らし、自己を鍛える事」を見るとよく理解出来るのである。我国の伝統的教育の側面を垣間見る思いがする。

コーチングのことだとか、いろいろと議論となることであるが
かの西岡常一棟梁も、「何も教えない」と弟子たちに不満をこぼされたこともあるようである
以前収録したプロジェクトXのVTRで小川三夫さんたちが語っていた

私は初任者指導教員を任命されているが、教員という職業についても
考えさせられることが多い。上記の修行という一文も教育新聞に載っているわけで
当然のことながら昨今の教育者の技術?伝承を暗に警告している部分もあるのではと
勘ぐってしまう。